· 技術革新とデジタルトレンド · シリーズ: テクノロジーの現在地 · 読了目安 17 分
AIに本を書かせた2023年と、AIと意味を監査しながら書いた2026年

2023年、私はChatGPTに本を書いてもらった。
当時はまだ、生成AIで長い文章を書かせること自体が目新しかった。契約していた有料版のChatGPTを使って、一冊分の原稿を作った。今では珍しくもない話だが、あの頃はそれなりに変わった試みだった。
やり方はこうだった。
まず「こういうことを書きたい」というテーマを渡す。AIに目次を作らせる。その目次を自分でかなり直す。章ごと、節ごとに「ここではこういう話をしてほしい」という方向性をプロンプトとして渡す。本文を書いてもらう。返ってきた文章を読んで、自分の言いたいことの方を向いているかを確かめる。だめなら指示を変えてもう一度書かせる。
それを繰り返して、一冊にまとめた。
いちばん手を入れたのは目次だった。AIが出してくる目次は、きれいに整っているのに、どこか他人事だった。項目は網羅されているのに、自分がいちばん言いたいことが真ん中に来ない。だから順番を入れ替え、章をつぶし、別の章を足した。今思えば、あのとき私がやっていたのは「何を書くか」を決めることよりも、「どこを中心に置くか」を決めることだった。
今から振り返ると、あれはAIをゴーストライターとして使った体験に近かったと思う。材料と方向性を渡し、文章にしてもらい、それを直す。当時の私は、AIで本を書くということについて、それ以外のモデルをほとんど持っていなかった。
ゴーストライターを頼んだつもりが、ずいぶん自分で直していた
今の感覚だと「AIに書かせただけでしょう」と思われるかもしれない。でも当時の難しさは、別のところにあった。
ひとつのチャットで長い文章を書かせていくと、文字数が増えるにつれて挙動が崩れた。前に決めた設定を忘れる。急に調子が変わる。同じことを繰り返し始める。指示から離れていく。
文体を揃えることすら難しかった。です・ます調で書いてほしいと伝えても、途中からだ・である調に戻る。だ・である調で統一したいと言えば、今度は妙に硬い言い回しが混じる。意図や文脈は渡せるのに、その通りの文章になって返ってこない。
だから結局、手で直した。文末を揃える。接続を整える。重複を削る。前の節と話がつながるように書き足す。
ゴーストライターを頼んだつもりなのに、ずいぶん自分で直しているな、という感覚があった。
当時の私にとって、あれは実験だった。AIの挙動を制御しながら、自分のテーマを一冊の本という形に持っていけるのか。その問い自体が新しかった。
そして、「自分が考えていることを本という形にできる時代が来た」という感覚は、確かに本物だった。
当時のGoサインは、「方向が合っているか」だった
ここは、今になってはっきり分かることだ。
2023年の私が原稿にOKを出す基準は、その段落が、自分の言いたいことの方を向いているかだった。
題材に沿っているか。この場所にふさわしい話になっているか。前後の文脈から外れていないか。それが満たされていれば、通していた。
当時は、それ自体に大きな価値があった。テーマを渡して、その題材、その場所、その文脈に沿った意味がちゃんと出てくる。それだけで驚くべきことだったのだ。
逆に言えば、一文一文について「この意味は本当に自分のものか」というところまでは掘っていなかった。掘る余裕もなかったし、掘るという発想もまだなかったと思う。
今読み返すと、文章としては稚拙だと思う。これは謙遜ではなく、自分で読み返しての実感だ。ただ、だから当時の本づくりが浅かったのかというと、それは違う。手は相当かけている。試行錯誤も多かった。コミットしていた対象が、今とは違う場所にあっただけだ。

2023年にも、自分が広がる感覚はあった
もうひとつ、当時から感じていたことがある。
AIと話していると、自分ひとりでは出てこない形が出てくる。選択肢を漏れなく並べてもらう。考えていなかった観点を挙げてもらう。ばらばらの話を構造にしてもらう。そこから学ぶことは多かった。
だからAIは、最初から「自分を拡張する道具」ではあったと思う。
ただ、2023年の私にとってのゴールは、やはり本という成果物をひとつ完成させることだった。一冊できあがったら、そこで終わりだった。
この違いに気づいたのは、今回の本を書いている最中だった。
自分らしい文章とは何か、という問い
その後も、AIは仕事や思考のさまざまな場面で使い続けていた。
ただ、本を書くことからはいったん離れていた。
そして2026年、再びAIを使って本を作る機会ができた。そのとき、以前とは別の違和感を持つようになった。
出てくる文章が、お行儀がよすぎるのだ。整っている。読みやすい。間違ってもいない。でも、自分の文章には見えない。
材料は自分が出している。テーマも自分のものだ。それなのに、なぜ自分らしくならないのか。
そこから、いくつかの問いが出てきた。
自分らしい文章とは、そもそも何なのか。自分らしさは、AIで再現できるのか。著者性というものは、再現できる種類のものなのか。
考えているうちに、材料が足りないのではないかと思い始めた。自分が過去に何を書き、何を話し、何にこだわってきたのか。その履歴が、どこにもまとまっていない。
書きかけの原稿、昔の記事、人と話した記録、思いつきのメモ。ばらばらの場所に、ばらばらの形で残っている。それらを一か所に集めて、原本を書き換えずに扱えるようにしておく仕組みが要る。そう思って作り始めたのが Founder Corpus だった。
2026年、AIはとても上手なゴーストライターになった
このころには、AIをゴーストライターとして使う性能そのものが、2023年とは比べものにならないほど上がっていた。
私自身、2026年に『意味の監査』とは別に、AIをかなりゴーストライター的に使って二冊の本を書いている。
渡せる材料の量も質も変わった。自分固有の情報、過去の経験、どこかでした発言、考えていたこと、その背景の文脈。そういう「点」を、以前よりはるかに大量に渡せるようになった。
AIはその点を使って、かなり自然に線を引いた。
2023年とは完成度がまるで違った。読んでいて「かなり自分らしい」と感じたし、「かなりよくできている」とも思った。
それでも、完全にはしっくりこなかった。
しばらく、その理由が自分でも分からなかった。
点は自分のものでも、線まで自分のものとは限らない
あるとき、言葉になった。
点は自分のものなのに、点と点をつなぐ線まで自分のものとは限らなかったのだ。
Aという発言がある。Bという経験がある。AIは、その二つを結んで「つまりこの人はこう考えている」という一文を生み出す。読むと、もっともらしい。流れもきれいだ。筋も通って見える。
やっかいなのは、その一文がたいてい正しそうに見えることだった。明らかに間違っていれば気づく。実際には、だいたい合っている。方向も外していない。ただ、自分では一度もそこまで言い切ったことがない。言い切っていない、という一点だけが違う。
因果が補われる。動機が補われる。人物像が補われる。ばらばらだった出来事に、きれいなストーリーの形が与えられる。
私はこれを Narrative Hallucination と呼ぶようになった。本人が語っていない因果や動機、まとまった人物像を、観測された材料のあいだにAIが補ってしまうこと。
これは「AIが完全な嘘を書く」という話ではない。点は正しい。けれども、その点を結ぶ線が、本人の線とは限らない。
AIの文章を読んだときの、なんとなく気持ち悪い感じ。その原因のひとつが、ここにあるのではないかと思うようになった。

開発の座組が、そのまま執筆に入ってきた
Founder Corpus を掘り下げる中で、意味の監査という考え方も少しずつ形になっていった。
根拠から、最終的に提示された意味までのあいだで、どこで意味が加わり、変形され、推論され、判断として採用されたのかを追跡する。正しい・間違っているを判定するのではなく、意味がどこで動いたかを見る。そういう考え方だ。
一定のところまで来たとき、今の現在地を一度本にしておこうと思った。それが『意味の監査』だった。
こうして並べて書くと、Founder Corpus から意味の監査まで一本の道があったように見える。でも実際は、そのつど目の前の違和感に対応していただけだ。後から振り返ると、つながって見える、という程度のことだと思っている。
面白かったのは、そこからだった。
本を書くために、あらためて新しい制作体制を作ったわけではない。Founder Corpus や意味の監査を開発していたときの環境が、そのまま執筆に使われた。
私がChatGPTと話しながら考えを整理する。別の角度から問い返してもらう。まとまったものをClaudeに渡し、形にしてもらう。それをまた読み、ChatGPTと話す。違えば戻す。新しい考えが出れば加える。
結果として、Claudeには主にライターの役を、ChatGPTには主に編集者の役をしてもらう形になった。Claudeは原稿を書き、構成を展開し、文案と直し案を出す。ChatGPTは読者にどう届くかを見て、構成を見て、意味が飛んでいないかを見て、書きすぎ・言いすぎを指摘し、別の角度から問い返す。
最初から「AIで編集部を作ろう」と考えていたわけではない。開発で使っていた役割分担が、本を書く場面でもそのまま機能しただけだった。
では私は何をしていたのか。
もちろん、著者だった。
二つのAIのあいだに立って、完成稿を判定していたのではない。その往復の中で、ずっと本を書いていた。文章を書く手そのものをAIに借りながら、何を言うのかを考え続けていた。
それまでソフトウェアや方法論を作るときにやっていたことと、ほとんど同じだった。違ったのは、そこで作っていたものがコードや仕様書ではなく、本の文章になったことだった。
つまり私は、ゴーストライターに本を発注するような形で『意味の監査』を書き始めたのではなかった。すでに動いていた開発の座組の中に、本の執筆が入ってきた。

AIが、筆になった
『意味の監査』を書いているとき、AIはライターというより、自分の筆に近かった。
今回、AIに渡していたのは、完成した文章や、きれいに整理された指示ばかりではなかった。
むしろ、「ここが少し違う気がする」「こういう関係なんじゃないか」「うまく言えないけれど、言いたいのはそっちではない」といった、まだ自分でも十分には言葉にできていない感覚を渡すことの方が多かった。
AIはそこから、話の中にある点を拾い、関係を整理し、ときには「図にするとこういう構造ではないか」というところまで返してくる。
それを見て初めて、「そう、言いたかったのはこれだ」と自分でも分かることがある。逆に、「いや、そこは違う」と分かることもある。
そこから文章にしていく。方向が違えば大きく戻す。意味が合っていれば一語だけ変える。漢字をカタカナにすることもあれば、段落を丸ごと書き直すこともある。
AIに文章を書いてもらっているというより、自分でもまだ形にできていないものを、いったん紙の上に出して見せてくれる筆を使っている感覚に近かった。自動筆記してくれるペン、と言ってもいい。
ただし、このペンには癖がある。
ときどき、こちらが引くつもりのなかった線まで、勝手に伸ばしてしまう。
だから私は、自分が書いているあいだも、意味がどこで足されたのかを見ていなければならなかった。意味の監査という考え方は、研究の話であると同時に、この本を書くあいだ、毎日使っていた道具でもあった。
出してもらったのは、文章だけではなかった
AIとの制作で面白かったのは、何度でも直せること以上に、何度でも別の形を見せてもらえることだった。
出してもらっていたのは、文章の候補だけではない。関係を並べ替える。別の線を引いてみる。同じ材料から違う意味の形を出す。そうして、自分の考えそのものを外から見られるようになった。
文章の可能性というより、考え方の形そのものを、何度も外に出してもらっていたという方が近い。
自分で一文を書くと、その一文に引っ張られる。一度書いてしまった言い回しから、なかなか離れられない。考えも同じで、一度ひとつの形にすると、別の形が見えなくなる。
けれどAIは、同じ意味に対して別の表現を何通りも出してくる。その中に「これに近い」があれば、それを選ぶ。なければ、「違う。もう少しこうだ」と話す。
AIに文章を書いてもらったのではない。AIに文章や構造の可能性を何度も出してもらいながら、自分が書きたい線を探していた。
百回、二百回とやりとりしたことに意味があったのではないと思う。増えたのは修正の回数ではなく、選べる候補の広さだった。AIは、私の代わりに決めたのではなく、私が選べる範囲を広げた。
水彩絵の具を、少しずつ重ねるように
しかも、そのたびに前の文章を捨てていたわけではない。
この往復を続けていると、原稿の変わり方にも特徴が出てきた。
もちろん、章ごと書き換えたことも、節を入れ替えたことも、文脈ごと差し替えたこともある。けれども、体験として強く残っているのはそこではない。
サインペンで線を引き直すのではなく、水彩絵の具を上から少しずつ重ねていくような感覚だった。
前の色を消すわけではない。その上に別の色が重なる。一回ごとの変化は小さい。けれども何度も重ねると、全体の色合いが少しずつ変わっていく。気づくと、最初に塗った色とはずいぶん違うものになっている。それでも、最初の色が消えてなくなったわけではない。

変わっていったのは文章だけではなかった。話しているうちに、自分が言おうとしていたことの輪郭のほうが変わった。最初に思っていたのとは別の形になった箇所もある。
意味を調整する。意味を重ねる。意味を確かめる。輪郭を合わせる。選び直す。『意味の監査』を書いているあいだ、私がやっていたのはそういうことだった。
ゴーストライティングでは、書くことをある程度任せる
この話をすると、ゴーストライティングとの比較が出てくる。私は特定の出版の現場を知っているわけではないので、一般に想定される形として書く。
そもそもそこには、一定の「任せる」という関係があるのだと思う。
著者が材料を話し、それをライターが構成し、文章にする。本人に書く時間がないこともあれば、文章にする作業そのものを専門家に委ねたい場合もあるだろう。程度の差はあっても、「文章にする部分は任せる」という了解が、その仕事の中には含まれている。
そう考えると、著者が一文ずつ何十回も修正を繰り返すことは、そもそもゴーストライティングが想定している分業とは少し違う。そこまで自分で関わるのであれば、自分で書く方を選ぶ人も多いだろう。
今回の私は、そのどちらでもなかった。
書くことを誰かに任せたかったわけではない。自分で書きたかった。
ただ、自分ひとりで一文ずつ言葉を探すよりも、AIに複数の形を出してもらい、その中から選び、違えばまた話す方が速かった。
AIに外へ出したのは、著者であることではなく、文章を生成する作業の一部だった。
2023年の私は、委ねる形に近かった。『意味の監査』では、道具として使う形に近づいた。同じ「AIで本を書く」でも、ここがいちばん違っていたと思う。
本の完成が、終点ではなくなった
2023年は、一冊できあがったら、そこで終わりだった。
『意味の監査』では、書いている途中から次の問いが次々に出てきた。本文を固めたあとにも論点が残り、次に調べたいことや試したいことが増えていった。
本を書き終えたとき、手元に残ったのは一冊の本だけではなかった。次にどこへ進むのかという地図も、いっしょに残っていた。
人間が書いたか、AIが書いたかではない
ここは、はっきり書いておきたい。
AIを使えば良い本になる、とは言わない。AIは、もっともらしく、きれいで、読みやすく、筋が通って見える文章を大量に出せる。しかも速い。だから、考えずに採用することもできてしまう。読む側には、おそらく区別がつかない。書いた本人にも、気をつけていないと区別がつかない。
ただし、問題は「AIが書いたこと」ではないと思っている。
重要なのは、その作品の意味に、誰かがどこまでコミットしているかだ。
AIが書いた文章でも、人間がその意味に深く関与していれば、著者性はあり得る。人間が全文を手で書いていても、作品全体の意味にほとんど関与していなければ、それだけで著者性が深いとは言えないと思う。
他者性は、意味を見る視点が分かれているかで決まる
AIとの共同制作で弱くなりやすいのは、他者性だ。
人間のライターや編集者には、こちらの意図とは無関係な背景があり、別の読み方があり、ときどき面倒な異論がある。それが原稿を鍛える。AIにはそれが弱い。こちらに合わせてくれてしまう。
今回の制作では、ClaudeとChatGPTに違う役割を与えることで、別の視点を人工的に作った。他者性を、誰であるかではなく、どの役割から見るかによって作った、と言ってもいい。
ただし、両方とも生成AIだ。似たような一般常識や文章規範を持っている。だから「二つのAIが同意したから正しい」とは、まったくならない。そこは期待していない。
今回、AIが二つあったこと自体よりも、書く役割と、読んで問い返す役割が分かれていたことの方が重要だったと思う。そして、私がそのあいだを行き来しながら意味を作っていたことも。
役割が分かれていたのは、本のために設計したからではなく、開発のときからそうなっていたからだ。考える、書く、読み返す、問い返す、作り直す。その分かれ方が、そのまま執筆にも効いた。
人間が書き、AIが編集してもいい。AIを使う人間のライターに、人間の編集者がついてもいい。組み合わせはいくつもある。
問われるのは、人間かAIかではなく、意味を見る視点が分かれているかどうかだと思う。
点も自分のもの、線も自分で引いた
振り返ると、私とAIの関係は三段階で変わってきた。
2023年のAIは、不完全ではあるが、頼もしいゴーストライターの誕生だった。
2026年には、自分の材料からかなり上手に線を引いてくれるゴーストライターになった。点は自分のものだった。文章もよくできていた。それでも、どこかしっくりこなかった。
そして『意味の監査』では、AIは自分の筆になった。

点も自分のものだった。線も、自分で引いた。
AIが線の候補を出すことはあった。けれど、どの線を残し、どこを引き直し、どこはつながないのか。その過程の中に、自分がずっと居続けた。線を引けたのは、AIがうまくなったからというより、意味ができていく過程の中に自分が入り続ける座組になっていたからだと思う。
だからこれは、AIを大量に使って書いた本であると同時に、これまででいちばん「自分で書いた」と感じられる本になった。
少し大げさに聞こえるかもしれないが、私はこの本を、愛する本として書き終えることができた。
AI時代の著者性とは、誰が文字列を生成したかではなく、誰がその意味にコミットしたかで決まるのかもしれない。
少なくとも、今回の私はそうだった。





