· 技術革新とデジタルトレンド · シリーズ: 意味の地図をつくる · 読了目安 15 分
AIが「15%」と言った。では、私は何を知ったのか――Meaning Auditから認識論を訪ねる

15%と言われても
天気予報で「降水確率15%」と言われても、それほど不思議には感じない。
正確な計算方法までは知らなくても、気象データや予報モデルがあり、過去の観測と照らして、その結果として15%という数字が出ているのだろう、と受け取ることができる。傘を持つかどうかを、その数字で決めることにもあまり抵抗がない。
では、AIにこんなことを言われたらどうだろう。
彼女が彼のことを好きである確率は15%です。
もちろん仮の例だが、こちらは途端に気になる。
その15%は、何を根拠にした数字なのだろう。
彼女のこれまでの言動を読んだのか。似たケースと比較したのか。「好きだ」と考えられる材料と、それに反する材料を比べたのか。それとも、AIが内部でつけた何らかのスコアを、確率のように見せているだけなのか。
同じ15%でも、天気予報の15%とはずいぶん違って見える。
さらに、その数字を支える材料が分かったとしても、まだ問いは残る。
たとえば、「よく彼の話をする」「二人で食事に行った」「メッセージの返信が早い」という情報があったとして、それは「彼を好きだ」という結論をどこまで支えるのだろう。どれも別の理由で説明がつく行動でもある。逆に、「恋愛対象ではないと本人が話していた」という情報があったら、15%はどう変わるのか。そもそもAIはその情報を見ていたのか。
饅頭なら割れば中身を確かめられる。でも、人の心はそうはいかない。

こういう場面で、分けたくなる。
AIが出力した、という事実。それを根拠として扱うこと。その根拠をどう読むか。そこから何を推論するか。自分がどう思うか。それを「知った」と言ってよいか。
AIが15%と答えた。その事実は確認できる。
では私は、それによって「彼女が彼を好きである可能性は15%だ」と知ったことになるのだろうか。
この問いを考えていて、認識論という分野にたどり着いた。
調べてみると、これは認識論の問いだった
認識論では、たとえば「知っているとはどういうことか」「何を根拠にそう信じてよいのか」「私たちはどこから知識を得ているのか」といった問いが考えられてきた。15%の前で私が立ち止まった問いは、どうやらこの分野で長く考えられてきたものらしい。
入口にしたのは、Stanford Encyclopedia of Philosophy(SEP)の “Epistemology” という項目だった。同じ事典の “The Analysis of Knowledge” と “Evidence” も読んだ。それから Internet Encyclopedia of Philosophy(IEP)の同名の項目。
読んでまず分かったのは、議論の蓄積が長いということだった。SEP の項目は、一つひとつが論文一本分ほどある。古代から続く問いで、しかも現在も決着がついていない論点が多い。
私はこの分野の専門家ではないので、以下に書くのは「調べた範囲ではこう読めた」という報告である。
「そう思っている」と「知っている」
AIに15%と言われて、私が「そうなのか」と思ったとする。
そのとき私は、彼女の気持ちについて何かを「思っている」。けれども、それで「知っている」と言えるだろうか。
「そうだと思っている」ことと、「そうだと知っている」ことは、どうも同じではない。
哲学では、前者に近いものを belief(信念)、後者を knowledge(知識)と呼んで考えてきた。IEP の項目には、“Knowledge is a kind of belief.”(知識は信念の一種である)とある。知っているなら、そう思ってもいる。けれども逆は成り立たない。思っていても、知っているとは限らない。
では、「思っている」に何が加われば「知っている」になるのか。
一つは、その考えが実際に正しいことだろう。
たとえば私が「今日はこの店は営業している」と思っていても、実際には休みなら、それを「知っていた」とは言いにくい。
もう一つは、そう考えるだけの理由があることだ。
たまたま当てずっぽうで「営業している」と答えて、それが当たっていたとしても、「知っていた」とは言いにくい。
こうした整理として有名なのが、Justified True Belief、略して JTB である。日本語では「正当化された真なる信念」と訳される。そう思っていて(belief)、それが正しく(true)、そう思う理由がある(justified)。知識を考えるときの、有名な入口の一つだ。
調べてみたら、定義そのものに合意がなかった
ここで、意外なことがあった。
私はこの JTB を、哲学の確定した定義のようなものだと思っていた。ところが SEP の “The Analysis of Knowledge” は、この「伝統的分析」が歴史を通じて広く受け入れられていたと言うのは “a bit of a convenient fiction”(いささか都合のよい作り話)だと述べている。古代から一貫してこれが標準だった、と単純には言えないらしい。
さらに驚いたのは、1963年に Edmund Gettier が書いた三ページの論文の話だった。三つの条件をすべて満たしているのに、「知っている」とは言いにくい例が示された。思っていて、正しくて、理由もある。それなのに、正しかったのはたまたまだった、という場合があるのだ。
以後、この種の例をどう扱うかをめぐって、膨大な議論が続いているという。
そして SEP は、現在に至るまで “no analysis has been widely accepted”(広く受け入れられた分析は存在しない)と書いている。
調べてみたら、「知っている」の定義そのものに、まだ広い合意がなかった。
これは落胆する話ではないと思う。むしろ、「何をもって分かったと言えるのか」という問いが、二千年以上考えられてなお開いていることを知って、少し安心した。私が実務で感じていた「根拠はあるのに、分かったとは言いにくい」という感覚は、問いの立て方として間違っていなかったらしい。
この記事では、JTB を「知識を考えるときの手がかり」として使い、確定した定義としては使わない。

その15%を信じてよい理由はどこにあるのか
では、その15%を信じてよい理由は、どこにあるのだろう。
認識論を読んでいくと、この「信じてよい理由」にも名前があった。justification、日本語では「正当化」と訳される。
名前は少し堅い。でも、問い自体はかなり日常的だ。
「なぜ、それを信じていいの?」
そして、信じてよい理由になるものを、哲学では evidence と呼んできた。日本語では「証拠」である。
ここで少し戸惑った。evidence という言葉自体が、哲学では一枚岩ではなかったからだ。
ある見方では、evidence は「信じてよい理由になるもの」である。別の見方では、「真実に近づく手がかり」であり、煙が火のしるしであるように、何かを指し示すものである。さらに、立場の違う人どうしが同じものを見て判断できるための、共通の土台として期待されることもある。
SEP の “Evidence” の項目(Thomas Kelly)は、こうした期待をいくつかの役割に分けて整理している。信じることを正当化するもの、合理的な人が尊重するもの、真理へのしるし、立場の違う人のあいだの中立な審判。項目の冒頭近くにはこうある。“Evidence, whatever else it is, is the kind of thing which can make a difference to what one is justified in believing.”(証拠とは、他に何であれ、人が何を信じることを正当化されるかに違いをもたらす種類のものである。)
同じ項目は、Hume の “A wise man proportions his belief to the evidence.”(賢い人は、証拠に応じて信念の強さを決める)を引いている。証拠があれば信じてよい、ではなく、証拠の強さに合わせて信じる強さを決める、という考え方だ。
もう一つ、「何が evidence に数えられるか」自体にも争いがあるらしい。自分の経験や感覚なのか、言葉で言える主張なのか、物や記録なのか。項目は、それぞれの立場が evidence に別の役割を期待しているために、見解が分かれていると説明している。
記録があることと、信じてよいことは違う
15%に戻る。
AIが15%と答えた記録は残っている。いつ、どんな質問に、どう答えたかを確認できる。意味の監査では、これは確認できる Evidence として扱える。
でも、その記録があるからといって、「彼女が彼を好きである可能性は15%だ」と信じてよいことにはならない。
Hume の言い方を借りれば、この記録は、どれくらいの強さで信じることを許すのか。AIがどんな材料をどう扱ったかを見ていない私には、それを測る手がかりがない。
ここで、同じ evidence という語が、二つの場所で違う仕事をしていることに気づいた。
意味の監査の Evidence は、「その情報がどこから来たか」を追う。ある資料が、どの元資料から来ているか。主語は文書だ。
認識論の evidence は、「それが信じてよい理由になるか」を問う。主語は、信じる人だ。
語は同じだが、役割が違う。意味の監査は、資料の中で意味がどこで動いたかを追う方法で、人が何を信じているかは扱わない。認識論は、人が何を知っていると言えるかを問う。

根拠が存在することと、根拠が本当に考えを支えていることは、違う。これは意味の監査でも、Evidence と Inference / Warrant を分けている理由と重なるように思う。ただし、重なって見えるだけで、同じ区別かどうかはまだ分からない。
知識には入り口がある
私たちは、いろいろな仕方で「知った」と感じる。
自分で見た。自分の気持ちを振り返った。覚えている。考えてたどり着いた。誰かから聞いた。
認識論では、こうした知識の入り口を、知覚・内省・記憶・推論・証言などに分けて考える。SEP の “Epistemology” の項目(Matthias Steup と Ram Neta)は、知覚、内省、記憶、理性、証言を挙げている。
15%は、このうちどれだろう。
私の知覚ではない。画面に数字が出ているのを見たのは知覚だが、彼女の気持ちを知覚したわけではない。記憶でもない。自分で考えて導いた値でもない。
いちばん近いのは、「誰かから聞いた」である。

AIの出力を「誰かが言ったこと」と呼んでよいのかは、それ自体が問いになる。AIは人ではない。人と同じ意味で何かを信じているとも、何かを伝えようとしているとも、前提にはできない。それでも、私がその値を受け取る構造は、人から聞いたことを受け取る構造と似ているように見える。
認識論には、この「誰かから聞いたこと」を専門に扱う領域がある。証言の認識論と呼ばれている。SEP の項目(Nick Leonard)は、私たちが世界について知っていることの多くが、他人の証言から来ていると書き出している。歴史、科学、政治、そしてお互いについて。
AIの出力を「証言」と呼んでよいのか。そこは、次回の問いにする。
意味の監査との接続
ここからは、私の側の考察として書く。
認識論は、「それを信じてよい理由は十分なのか」と問う。
意味の監査は、「この根拠から、この結論まで本当に進めるのか」を見る。
二つの問いは似ている。けれども、同じものではない。意味の監査は、文書の中で意味がどこで動いたかを見る方法で、良し悪しを判定しない。認識論は、知識とは何かを問う哲学である。意味の監査には、「信じる」「知っている」に当たる用語がない。意味の監査で最後の段にある Commitment は、「成果物がある意味を判断・結論として採用すること」であって、人の信念のことではない。
それでも、「根拠と結論のあいだに何があるかを、分けて見る」という姿勢は通じているように思う。認識論が justification という考え方で「根拠があるだけでは足りない」と言うことと、意味の監査が Inference / Warrant という段を置いて「根拠から主張へ進む理由が示されているか」を見ることは、同じ場所を別の角度から見ているように見える。同じ概念なのかは、まだ分からない。
もう一つ、混同しやすいところがある。
意味の監査は、情報の状態を KNOWN / INFERRED / UNKNOWN / CONFLICTING という印で記録する。このうち KNOWN は、「利用できる資料の中で直接確認できた」という監査上の印である。INFERRED は監査者が推論したもの、UNKNOWN は資料からは分からないもの、CONFLICTING は資料どうしが食い違っているもの。
KNOWN は、哲学でいう「知っている」と同じ意味ではない。語が似ているぶん、混同しないように気をつけたい。
意味の監査から見た地図(第1回)
下の図は、15%の例を意味の監査の段に沿って置き、その横に、認識論から投げかけられる問いを並べたものである。
認識論の考え方を意味の監査の段に挿入したのではない。左の流れは意味の監査、右の問いは認識論、というように、層を分けている。

注記: 左の流れからは Context / Pragmatics の段を省いている。この例で不要だからではなく、今回は認識論との接点に焦点を当てるため、意味の監査の段の一部を省略した。語用論を扱う回で前景化する。右の問いは、認識論の正式なモデルではなく、今回読んだ範囲から私が拾った問いである。右の問いを専門用語で言い直すと、上から evidence、belief、justification、truth、knowledge に関わる問いになる。
今回分かったこと
- 「AIが15%と答えた」ことと、「彼女が彼を好きである可能性は15%だと知った」ことは違う。
- 何かを「知っている」と言うには、単に「そう思っている」以上のものが必要らしい。それが実際に正しいこと、そう思う理由があること。この整理は JTB(正当化された真なる信念)として知られている。
- ただし、その条件が何なのかについて、認識論では今なお議論が続いている。Gettier(1963)以降、広く合意された答えはないと SEP は書いている。
- 記録が存在することと、その記録が本当に結論を支えていることは別である。意味の監査の Evidence は「どこから来たか」を追い、認識論の evidence は「信じてよい理由になるか」を問う。語は同じだが、仕事が違う。
- 15%という出力は、知識の入り口としては「誰かから聞いたこと」に近い。
まだ分からないこと
- AIの出力を「誰かが言ったこと」として扱ってよいのか。扱うとすれば、人から聞いたことと何が違うのか(証言、testimony)。(第2回)
- 信じてよい理由があるかどうかは、信じる人の内側の事情だけで決まるのか、それとも外側の条件も要るのか(認識論では内在主義と外在主義の論争と呼ぶらしい)。今回は踏み込んでいない。
- 確率として出力された値を「知っている」と言える条件は何か。証拠が仮説をどう支えるかを扱う分野があるので、そこで再訪したい。(第8回)
- 意味の監査の「根拠から主張へ進む理由」(Inference / Warrant)と、認識論の「信じてよい理由」(justification)が、同じ場所を見ているのか、違う場所を見ているのか。
次回
誰かが言ったことは、どこまで Evidence になるのか。証言の認識論を訪ねる。
出典
- Steup, M. & Neta, R., “Epistemology”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(最終改訂 2024-10-26)https://plato.stanford.edu/entries/epistemology/
- Ichikawa, J. J. & Steup, M., “The Analysis of Knowledge”, SEP(最終改訂 2026-01-21)https://plato.stanford.edu/entries/knowledge-analysis/
- Kelly, T., “Evidence”, SEP(最終改訂 2014-07-28)https://plato.stanford.edu/entries/evidence/
- Leonard, N., “Epistemological Problems of Testimony”, SEP(2021-04-01)https://plato.stanford.edu/entries/testimony-episprob/
- Truncellito, D. A., “Epistemology”, Internet Encyclopedia of Philosophy https://iep.utm.edu/epistemo/
- Gettier, E. L., “Is Justified True Belief Knowledge?”, Analysis 23(6), 1963, pp. 121–123
引用した英文の日本語訳は筆者による。





