· 技術革新とデジタルトレンド · シリーズ: 意味の地図をつくる · 読了目安 12 分
「私たちはこう考える」の「私たち」は、誰なのか?――Meaning Auditから集団の認識論を訪ねる

「私たちは、この事業を継続すべきだと考えています」
会社名義の報告書に、こう書いてあった。
私たちは、この事業を継続すべきだと考えています。
読み流せば、何も引っかからない一文である。けれど、ふと手が止まった。この「私たち」は、誰なのだろう。
数字を集めた調査担当者だろうか。文章を書いた人だろうか。目を通した部長か、決めた経営会議か、社長か。それとも、会社という法人そのものか。
第12回までは、根拠と主張のあいだにある見えない橋を追ってきた。今回は、橋を渡った先を見に行く。その主張は、誰が引き受けているのか。
全員がそう思っている、という読み方
いちばん素直な読み方は、「会社の人たちが、だいたいそう思っている」だろう。
集団の認識論には、実際にそう考える立場がある。要約主義と呼ばれ、集団の信念を、成員の信念から決まるものとみる。単純な形では、全員か、ほぼ全員が信じているとき、集団が信じている、とする。
けれど、集団の証言をめぐる議論には、この読み方では説明しにくい例がある。
誰も信じていなかった報告書
第2回で、国連の委員会のような集団の報告は誰の証言なのか、という問いを残した。証言の認識論には、ちょうどその形の例がある。
国連の人口委員会が、2002年に報告書を出した。そこには、北米の人口は増え、中米は横ばいで、南米は減った、という一文があった。作業は分担されていて、担当した人たちは互いの結果を伝え合っていなかったので、報告書が出るまで、誰もこの一文そのものの根拠を持っていなかった。報告書が出た時点で、この一文を信じていた委員も一人もいなかった。それでも委員会は、この内容を証言したように見える。
ここで見方が分かれる。集団の証言は成員の証言から理解すべきだ、という見方と、成員の誰も証言していなくても集団は証言しうる、という見方である。
信じることと、採用すること
哲学者の Margaret Gilbert は、私たちはふだん、成員の多くや全員がそう信じていると仮定せずに、集団に信念を帰している、と指摘した。彼女の説明では、集団が何かを信じるのは、成員が「一つの体として、それを信じる」ことに共同でコミットしているときである。一人ひとりが個人的にそれを信じている必要はない。
これには批判もある。それは成員の信念の状態というより、仲間に対する責任の話ではないか。だから「集団の信念」ではなく「集団の受容」の説明とみるべきだ、という提案がある。
この区別は、報告書を読むときにも使えそうに思った。「私たちは考えています」には、少なくとも二つの読み方がある。会社がそれを信じている、という読み方と、会社がそれを公式の見解として採用した、という読み方である。後の方なら、成員の誰も個人的にはそう思っていなくても成り立ちうる。
議事録によくある「研修を増やすべきだとの認識で一致した」も同じだ。出席者の全員が本当にそう思っていたかは、議事録からは分からない。けれど、その場で一つの見解として採った、という記録としてなら読める。
ここでの「コミットする」は、意味の監査の Commitment と同じ言葉だが、同じものかどうかは確かめていない。
組織の名で話す権限
組織の主張を考えるとき、組織の頭の中ではなく、「誰が組織の名で話す権限を持つのか」という側から見る見方もある。
この問題は、ずっと古くから考えられてきた。Hobbes は『リヴァイアサン』で、ある人の言葉や行為を、別の人が自分のものとして引き受ける場合を論じた。
he that owneth his words and actions, is the AUTHOR
(その言葉と行為を自分のものとして持つ者が、AUTHOR である)
Hobbes の author は、文章を書いた人ではない。他人が語った言葉を、自分のものとして引き受ける人である。そして、自分が author ではない約束や、与えた権限の外で結ばれた約束には、誰も縛られない、とも書いている。
社員が個人の SNS に「当社はこの事業から撤退します」と書いたとする。そう書いたからといって、それだけで会社の表明になるとは限らない。見るべきなのは、誰が書いたかより、その人に会社の名で言う権限があったかどうかである。
また、会社が「2030年までに排出を半減します」と宣言したとき、社員の全員がその目標を個人的に信じている必要はない。それでも、会社としての約束は生まれているように見える。
書いた人、言った人、引き受けた人
書いた人と、言った人と、引き受けた人は、同じとは限らない。
個人の日記のように、この三つが重なりやすい文書では、区別はあまり目立たない。ずれが目に見えてくるのは、組織が話すときだ。
いまの職場で起こりそうな流れを置いてみる。アナリストが資料を集めた。AI が下書きを書いた。担当者が少し直した。部長が承認した。会社の名前で公開された。その中に、こんな一文がある。
市場は来年、20%成長すると考えられます。
20%という数字は、どこから来たのか。その数字から「成長する」と推論したのは誰か。承認したのは誰か。外に言ったのは誰か。この主張を引き受けたのは誰か。外れたとき、責任を負うのは誰か。答えは、全部同じとは限らない。

来歴は、引き受けまで書くのか
誰が何をしたかを記録する仕組みはある。W3C の PROV という来歴の標準では、文書や活動に関わった人・組織・ソフトウェアを「Agent」として記録し、成果物を Agent に帰すことができる。Agent は、活動や成果物の存在について「何らかの形の責任を負うもの」と定義されている。
けれど、少なくとも私が確認した定義だけでは、誰がその主張を自分のものとして採用したかまでは分からなかった。
論文の世界には、これと近い区別を使う例がある。医学雑誌の編集者の国際委員会(ICMJE)の勧告は、AI を著者に挙げるべきではない、とする。その理由は、こう書かれている。
they cannot be responsible for the accuracy, integrity, and originality of the work
(それらは、成果の正確さ、完全性、独創性について、責任を負うことができない)
少なくとも AI を著者にしない理由では、「書いたか」より「責任を負えるか」が問題になっている。Hobbes の author と、少し似た向きを向いている。
ただ、ここでの「責任」が、主張を引き受けることと同じだとは限らない。AI が主張を引き受けられるかどうかも、この勧告からは決まらない。
意味の監査に戻る
意味の監査では、これまで何度も「誰が言ったのか」「誰の判断なのか」と問うてきた。今回の訪問で、少なくとも二つを分けて考えた方がよさそうだと思った。
一つは、Evidence の名義である。誰が数字を集め、誰がそれを言ったのか。もう一つは、Commitment の主体である。最後の主張を、誰が引き受けているのか。
AI が書いたという来歴と、組織がその主張を採用したということは、別のことかもしれない。「この文は AI が書いた」と分かっても、「では、誰がこれを言っているのか」には、まだ答えていない。
「会社がそう考える」と書くとき、その考えは会社のどこにあるのだろう。
今のところの私の答えは、こうだ。会社の誰かの頭の中にあるとは限らない。どの手続で、誰の権限で、何が採用されたか。その記録の方に探す方が、見つかりやすいのかもしれない。
意味の監査から見た地図(第13回)
| 意味の監査の段 | 今回の訪問から生まれた問い |
|---|---|
| Evidence / Source(数字、資料、下書き、来歴の記録) | その数字は誰が集め、誰が言ったのか/来歴は、関わった人を書いているか |
| Inference / Warrant(「20%成長すると考えられる」) | その推論は誰のものか/書いた人の推論か、採用した組織の推論か |
| Commitment(「私たちは考えています」) | 誰がこの主張を引き受けているか/その人に、組織の名で言う権限はあったか |
注記: 右の問いは、今回の訪問から私が拾ったもので、集団の認識論の理論の図式ではない。
今回分かったこと
- 集団の信念を、成員の信念から決まるものとみる立場と、そうではないとみる立場がある。決着はついていない。
- 国連の委員会の報告書に、出た時点で委員の誰も信じていなかった一文が入っていた、という例が論じられている。それでも委員会は、それを証言したように見える。
- 集団が何かを「信じる」ことと「受け入れる(採用する)」ことは区別できる、という議論がある。
- Hobbes の author は、書いた人ではなく、言葉を自分のものとして引き受ける人である。ICMJE は、AI を著者にしない理由として、責任を負えないことを挙げている。
- 来歴が分かっても、誰がその主張を引き受けたかは、別に確かめる必要がある場合がある。
まだ分からないこと
- 意味の監査の Commitment は、集団が何かを「採用する」ことと、どこまで同じものなのか。
- 部長の承認は、どこまで主張の「引き受け」になるのか。
- 集団は、成員が入れ替わっても続くという議論がある。では、担当者が辞めたあと、その文書の主張は誰が引き継ぐのか。
- 全員が個人的にそう思っていても、組織として採用していなければ、それは組織の主張とは言えないのか。
次回
次にどの問いへ進むかは、まだ決めていない。
出典
- Leonard, N., “Epistemological Problems of Testimony”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(2021), §6 Group Testimony. https://plato.stanford.edu/entries/testimony-episprob/
- 国連人口委員会の例は、同項目が Tollefsen, D., “Group Testimony”, Social Epistemology 21(2007)から引いたもの。
- O’Connor, C., Goldberg, S. & Goldman, A., “Social Epistemology”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(2024年改訂), §3.3. https://plato.stanford.edu/entries/epistemology-social/
- Schweikard, D. P. & Schmid, H. B., “Collective Intentionality”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(2020年改訂). https://plato.stanford.edu/entries/collective-intentionality/
- Smiley, M., “Collective Responsibility”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(2022年改訂). https://plato.stanford.edu/entries/collective-responsibility/
- Hobbes, T., Leviathan(1651), Chapter XVI “Of Persons, Authors, and Things Personated”. Project Gutenberg #3207 https://www.gutenberg.org/ebooks/3207
- W3C, PROV-DM: The PROV Data Model, W3C Recommendation, 30 April 2013. https://www.w3.org/TR/prov-dm/
- ICMJE, Recommendations for the Conduct, Reporting, Editing, and Publication of Scholarly Work in Medical Journals, “Use of AI by Authors”. https://www.icmje.org/recommendations/browse/artificial-intelligence/ai-use-by-authors.html
英文の引用の日本語訳は筆者による。Gilbert と Wray(集団の受容)の議論は SEP の「Social Epistemology」と「Collective Intentionality」による。報告書と SNS と市場予測の例は筆者による。





