誰かが「休みだよ」と言った。では、私はそれを知っているのか――Meaning Auditから証言の認識論を訪ねる

友人から「今日、その店は休みだよ」と聞いて、出かけるのをやめた。自分で見ていないのに、私はそれを知ったことになるのか。私たちが知っていることの多くは、他人の言葉を通じて届いている。シリーズ「意味の地図をつくる」第2回は証言の認識論を訪ねる。

「今日、その店は休みだよ」

行こうと思っていた店がある。

出かける前に、友人から連絡が来た。

今日、その店は休みだよ。

私はそれを信じて、出かけるのをやめた。

自分で店まで見に行ったわけではない。張り紙を見たわけでも、店に電話をかけたわけでもない。それでも、「今日は休みらしい」と思って行動を変えた。

では私は、「その店が今日は休みだ」と知ったことになるのだろうか。

友人が実際に店の前を通って、張り紙を見たのなら、かなり信じやすい。

でも、こういう場合はどうだろう。

「別の人から聞いた」。「SNSで見た」。「なんとなくそう思う」。「前にも火曜日は休みだったから」。

どれも、口にすれば同じ「休みだよ」になる。けれども、その一言の後ろにあるものは、ずいぶん違う。

吹き出し「今日、その店は休みだよ。」の後ろにある四つの根拠。店の前で張り紙を見た、別の人から聞いた、SNSで見た、前にも火曜日は休みだった。口にすれば同じ一言でも、後ろにあるものは違う

そう考え始めると、いくつも問いが出てくる。誰が言ったのか。その人は何を見たのか。その人をどこまで信用してよいのか。その人自身も、誰かから聞いただけなのではないか。反対の情報はないのか。

自分で見ていないのに

少し考えて、気づいたことがある。

私が「知っている」と思っていることのかなりの部分は、自分で直接確かめたものではない。

歴史上の出来事を、私は見ていない。遠い国で起きたことも、科学の知識も、たいていは誰かが書いたもの、誰かが話したものを通じて知っている。病院で医師から説明を受けたときも、私は自分で検査結果を読み解いたわけではない。

「自分で見ていないものを信じるのは危うい」というのは、一面では正しい。けれども、それを徹底すると、社会生活がほとんど成り立たない。私たちは毎日、他の人の言葉を、知るための入り口として使っている。

だとすれば、問いは「他人の言葉を信じてよいか」ではなく、「いつ、どこまで信じてよいのか」になる。

調べてみると、これは証言の認識論の問いだった

前回、知識には入り口があると書いた。自分で見た。覚えている。考えてたどり着いた。誰かから聞いた。この最後の入り口を専門に扱う領域が、認識論の中にあった。証言の認識論と呼ばれている。

今回も、専門家として解説するのではなく、自分が読んで理解できた範囲を記録する。入口にしたのは、Stanford Encyclopedia of Philosophy(SEP)の “Epistemological Problems of Testimony” という項目(Nick Leonard)である。

項目はこう書き出している。“So much of what we know about the world, e.g., history, science, politics, one another, etc., comes from the testimony of others.”(私たちが世界について知っていることの非常に多く、たとえば歴史、科学、政治、そしてお互いのことは、他者の証言から来ている。)

さっき私が気づいたことは、この分野の出発点そのものだったらしい。そして同じ段落は、証言が欠かせない知識の源であることは明らかでも、話し手の言葉からどうやって私たちが学べるのかを正確に言うのは難しい、と続けている。

最初に気になったのは、「証言」という言葉の範囲だった。日本語で証言と聞くと、裁判の証人を思い浮かべる。でも SEP の項目に出てくる例は、もっと日常的だ。友人が「昨日の試合、君の好きなチームが勝ったよ」と言う。知らない街で道を尋ねて、通りがかりの人が「ホテルはこの先三ブロックだよ」と教えてくれる。

つまり、ここでの testimony(証言)は、法廷の言葉に限らない。人が誰かに向かって「〜だよ」と言い、聞いた側がそれを知る手がかりにする。そういう場面全体が対象になっている。

ただし、証言を厳密にどう定義するかについては、議論があるようだった。項目の最後の節によれば、証言するには何かを主張していなければならない、という点はかなり広く受け入れられている。けれども、主張しさえすれば証言になるのかについては、議論が続いているという。今回は、この定義の細部には入らない。「店は休みだよ」という友人の一言が、ここで考える証言に含まれる、と分かれば十分だと思う。

なぜ、友人の話を信じていいのか

ここが今回、いちばん知りたかったところだった。

友人が「店は休みだよ」と言った。私はなぜ、それを信じてよいのだろう。

いくつか理由が思い浮かぶ。この友人は、これまで間違ったことを言ったことがあまりない。嘘をつく理由もない。「さっき前を通ったら張り紙があった」と言っている。

あるいは、もっと単純に、こう考えることもできる。人が何かを言ったら、特に疑う理由がなければ、ひとまず信じてよいのではないか。

この二つの考え方は、似ているようで、かなり違う。

一つ目は、他人の話を信じるには、その人が信頼できると考える別の理由が必要だ、という考え方である。友人の過去の正確さや、嘘をつく理由がないことといった、話そのものとは別の根拠を、聞く側が持っていなければならない。

二つ目は、特に疑う理由がなければ、人の話はそれ自体である程度信じてよい、という考え方である。

この対立には名前が付いていた。SEP の項目では、前者を Reductionism、後者を Non-Reductionism と呼んでいる。日本語にすれば、還元主義と非還元主義になる。項目の冒頭には、証言による正当化は知覚・記憶・推論といった別の源の組み合わせへ還元できるのか、という問いが挙がっている。その「還元」である。

項目は、Reductionism をこう書いている。“Reductionists maintain that in order to acquire testimonial justification, one must have positive reasons for thinking that the speaker in question is a reliable testifier.”(還元主義者は、証言による正当化を得るには、その話し手が信頼できる証言者だと考える積極的な理由を持っていなければならない、と主張する。)

Non-Reductionism については、私たちには “a defeasible but presumptive right to believe what people tell us”(人から言われたことを信じる、覆されうるが推定的な権利)がある、と説明している。「覆されうる」というのは、疑う理由が出てくれば、その権利は失われるという意味だ。

名前は少し堅い。でも、問い自体はかなり日常的だ。

「その人を信じる理由が、あなたにはあるの?」と、「疑う理由がないなら、信じていいんじゃない?」。

調べていくと、どちらにも弱点が指摘されていた。

信じる理由を別に持っていなければならない、という立場には、知らない街で道を尋ねる例が突きつけられる。初めて会った人について、私はほとんど何も知らない。それでも、「ホテルはこの先だよ」と言われて、それを信じるのはおかしなことではないように思える。別の理由を要求すると、私たちが正当に信じていることの多くが、正当ではなくなってしまう。

反対に、疑う理由がなければ信じてよい、という立場には、だまされやすさの問題が指摘される。項目の例では、適当なウェブサイトの見知らぬブロガーの言うことでも、疑う理由さえなければ信じてよいことになってしまう。

還元主義の中にも分かれ目がある。証言というもの全般が信頼できると考える理由が要るのか(global)、それとも、いま目の前のこの人の、この話について理由が要るのか(local)。

そして、どちらか一方を選ばない人たちもいた。項目は、話し手と聞き手の両方が役割を担うという考え方を “it takes two to tango, so to speak”(いわば、タンゴは二人で踊るものだ)と表現して、混合的な立場を紹介している。そのうえで、“Whether any of these hybrid views will ultimately succeed is still very much an open debate.”(これらの混合的な見方のどれかが最終的に成功するかどうかは、まだ大いに議論の途中である。)と書いている。

前回、「知っている」の定義そのものに合意がなかったことに驚いた。今回も、他人の話をなぜ信じてよいのかについて、答えは一つに決まっていなかった。ただ、二択ではなく、その間にいくつもの立場があることは分かった。

聞く側は、何をすればいいのか

この論争を読んでいて、一つ気づいたことがある。

問題は、話す側が信頼できるかどうかだけではない。聞く側が何をしているか、も問われている。

疑う理由がなければ信じてよい、という立場の中にも、ただ疑う理由が「ない」だけでは足りない、と考える人たちがいるという。項目によれば、聞き手は疑う理由が出てこないかどうかに対して「注意を払っている(on the lookout for)」必要がある、という見方もある。

友人の「休みだよ」に戻ると、こういうことになる。友人を信じてよいかどうかは、友人の側の事情だけで決まるわけではない。私の側が、たとえば「今日は祝日だから、普段は休みでも開けているかもしれない」といった反対の手がかりに気づける状態にあるかどうかも、関わってくる。

話す側については、項目の別の節で、権威ある証言が扱われていた。同じ「この植物は毒があるから触らないで」でも、「近所に住んでいて少し植物に詳しい人に聞いた」のと、「その植物を専門に研究している人に聞いた」のとでは、どちらも証言から知ったことになるが、後者の方が信念としてよい状態にあるように見える、という例である。誰が言ったかだけでなく、その人がその件についてどれだけのことを知りうる立場にあったのかが、問いになる。

本人が知らなくても、伝わることがある

もう一つ、意外だった論点がある。

ふつう、証言は知識を「渡す」ものだと考える。友人が店が休みだと知っていて、それを私に伝えるから、私も知ることができる。だとすれば、友人自身が知らなければ、私も知ることはできないはずだ。

ところが項目は、“Can testimony generate knowledge, or can it merely transmit it?”(証言は知識を生み出しうるのか、それとも渡すことしかできないのか。)という問いを、大きな論点の一つとして挙げている。

そこで紹介されている例が印象に残った。進化論を自分では信じていない生物の教師が、それでも授業では、生徒に進化論の内容を教える。教師自身はその内容を信じていないので、知っているとは言えない。それでも生徒は、教師の言葉を通じて、その内容を知ることができるのではないか、という議論である。

この例をどう受け止めればよいのか、私にはまだ判断がつかない。ただ、「誰が言ったか」と「その人がそれを知っていたか」と「聞いた側が知ったと言えるか」が、それぞれ別の問いでありうることは、この例でよく分かった。

AIの出力は、証言なのか

前回の終わりに残した問いに戻る。

AIの出力は、「誰かから聞いたこと」として扱ってよいのだろうか。

今回読んだ SEP の項目には、AIや機械の出力についての議論は見当たらなかった。扱われていたのは、人が話す場合と、国連の委員会のような集団が報告書の形で何かを述べる場合である。一人の人ではなく集団が証言する場合までは扱われているが、AIそのものは扱われていない。

だから、ここからは私の考えである。

似ているところはある。私は、自分で確かめていない情報を、外から受け取る。その情報を判断の材料にする。「休みだよ」とAIに言われて出かけるのをやめるのも、友人に言われてやめるのも、私の側から見れば、構造はよく似ている。

けれども、違うところも大きい。今回読んだ議論の多くは、話し手が何かを信じていること、相手に伝えようとしていること、信頼できる人かどうかを問えることを前提にしているように見えた。AIについて、人と同じ意味で、何かを信じているとも、伝えようとしているとも、誠実であるとも、前提にはできない。

信頼できるかどうかを問う、という部分だけは、AIにも向けられそうに思う。けれども、それが「この人は信頼できるか」と同じ問いなのか、「この計器は正確か」に近い問いなのかは、まだ分からない。

AIの出力を testimony と呼べるのかどうかは、今回調べた範囲では、答えが出なかった。

意味の監査との接続

ここからは、私の側の考察として書く。

誰かが「店は休みだ」と言った。その発言が記録されていることと、店が本当に休みであることは、同じではない。さらに、その人自身が店を見たのか、誰かから聞いたのかでも違う。

意味の監査の言葉で言い直すと、こうなる。

「友人がそう言った」という記録は、意味の監査では、確認できる Evidence / Source として扱える。メッセージが残っていれば、誰がいつ何と言ったかは追える。

けれども、その記録から「店は休みだ」という結論までは、まだ距離がある。そのあいだには、友人が何を根拠にそう言ったのか、という段がある。意味の監査では、根拠から結論へ進むところを Inference / Warrant と呼んでいる。友人が張り紙を見たのか、別の人から聞いたのかが分からないとき、その段は確認できない。

そこで、二つを分けて記録したくなる。

誰が言ったのか。 その人は、何を根拠に言ったのか。

張り紙からそれを見た人、友人、私へと言葉が伝わる鎖。どこまで遡れば「知った」と言えるのか

前者は、記録があれば確かめられることが多い。後者は、記録からは分からないことが多い。意味の監査の情報状態の印で言えば、「友人がそう言った」は KNOWN にできても、「友人は張り紙を見た」は、本人がそう言っていない限り UNKNOWN のまま残すことになる。それを「たぶん見たのだろう」と埋めると、UNKNOWN が推測を経て事実に変わってしまう。意味の監査が禁止しているのは、まさにその動きだった。

意味の監査には、引用の切り取り・言い換え・帰属によって発言者の意味が変わることを記録する、QUOTE_HANDLING という種別がある。「誰が言ったか」を取り違えると、意味が変わる。証言の認識論を読んだあとでは、そこにもう一つ、「その人が何を根拠に言ったか」を取り違えても意味が変わる、という層が見えてきた。AIで他人の発言を扱うときにも、この違いは重要になる。

ただし、ここでも二つは同じものではない。証言の認識論は、聞いた人がいつ他人の言葉を信じてよいのかを問う。意味の監査は、文書の中で、ある発言がどう扱われ、どこで意味が変わったかを追う。意味の監査は、聞いた人が信じてよいかどうかを判定しない。それでも、「話し手の根拠」という段を見落とさないために、この学問から学べることは多そうだ。

意味の監査から見た地図(第2回)

前回と同じく、左に意味の監査の流れ、右に今回の学問から投げかけられる問いを置く。証言の認識論の考え方を、意味の監査の段に挿入したのではない。

左に意味の監査の流れ(Evidence / Source、Interpretation、Inference / Warrant、Commitment)、右に証言の認識論から投げかけられる問い。二つは別の層として並べている

注記: 左の段からは Context / Pragmatics を省いている。今回は証言の認識論との接点に焦点を当てるため、段の一部を省略した。右の問いは、証言の認識論の正式なモデルではなく、今回読んだ範囲から私が拾った問いである。

今回分かったこと

  • 私たちが「知っている」と思っていることの多くは、自分で直接確かめたものではない。証言の認識論は、そこを出発点にしている。
  • ここでいう証言(testimony)は法廷の言葉に限らず、友人の「休みだよ」のような日常の一言も含む。ただし、厳密な定義には議論がある。
  • 他人の話を信じてよい理由を、聞く側が別に持っている必要があるのか(Reductionism)、疑う理由がなければ信じてよいのか(Non-Reductionism)について、認識論には議論がある。両方を組み合わせる立場もあり、決着はついていない。
  • 信じてよいかどうかは、話す側だけでなく、聞く側が反対の手がかりに注意を払っているかにも関わる、という見方がある。
  • 「誰が言ったか」と「その人が何を根拠に言ったか」は、分けて考えた方がよい。

まだ分からないこと

  • AIの出力を testimony と呼べるのか。呼べないとすれば、計器や記録のような別の知識源として扱うべきなのか。(今回の資料には AI の議論がなかった)
  • 話が人から人へ伝わって鎖が長くなったとき、どこまで元をたどる必要があるのか。本人が知らなくても伝わりうる、という議論とどう関係するのか。
  • 国連の委員会のような集団の報告は「誰の証言」なのか。人ではなく、組織や制度を知識の源として扱う議論は、社会認識論とつながっていそうだが、まだ読んでいない。

次回

誰が言ったかだけでは、まだ足りない。同じ「休みだよ」でも、どんな状況で言われたかによって、伝わる意味は変わる。

次は、書かれた意味と、伝わった意味の違いを訪ねる。


出典

引用した英文の日本語訳は筆者による。項目内で言及されている Coady (1992)、Lackey (2008)、Hume、Reid などの原典は、今回は読んでいない。

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