「約束します」と言った。そのとき、何が起きたのか――Meaning Auditから発話行為論を訪ねる

「約束します」は、約束について説明しているわけではない。言った瞬間に、約束が生まれている。言葉は情報を伝えるだけなのか。シリーズ「意味の地図をつくる」第5回は、Austin に始まる発話行為論を訪ねる。

「約束します」と言った瞬間

友人から本を借りる。帰りぎわに、こう言う。

明日までに返します。約束します。

この「約束します」は、何を伝えているのだろう。

「私は今、約束というものについて説明しています」という情報ではなさそうだ。言い終えた瞬間に、私は約束をしている。そして、それまでになかったものが一つ増えている。明日になって本を返さなければ、友人は「約束したよね」と言える。私の側にも、返さなければという感覚が残る。

遅れてしまって、ごめんなさい。

これも、遅れたという事実や、残念に思っている気持ちを報告しているだけではない。言うことで、私は謝っている。「確認をお願いします」と言えば、私は頼んでいる。

言葉は、何かを説明するだけでなく、何かをすることがあるのではないか。今回は、その感覚から出発したい。

本当か嘘か、では測れない言葉

「明日は雨です」なら、本当か嘘かを問える。明日晴れていれば、その文は間違っていたことになる。

ところが「約束します」には、その問い方がなじまない。後で約束を破ったとしても、「約束します」という言葉が嘘だったとは言いにくい。破られたのは約束のほうで、適切な条件がそろっていれば、約束そのものは言った時点でなされている。

この違和感を出発点にしたのが、哲学者の J. L. Austin だった。今回の入口は、Stanford Encyclopedia of Philosophy(SEP)の “Speech Acts”(Mitchell Green)と “John Langshaw Austin”(Guy Longworth)の二つの項目である。今回も、専門家として解説するのではなく、読んで理解できた範囲を記録する。Austin の講義録 How to Do Things with Words(邦訳『言語と行為』)や Searle の著作などの原典は、今回は読んでいない。

SEP の Austin の項目によると、Austin は講義の最初に、結婚式で相手を配偶者とすると誓う言葉、進水式で瓶を船尾に打ちつけながら言う「この船をクイーン・エリザベス号と名づける」、遺言の「私の時計を弟に遺贈する」、「明日は雨が降るほうに6ペンス賭けよう」といった例を挙げ、“None of the utterances cited is either true or false”(挙げた発話はどれも、真でも偽でもない)と述べたという。

こうした、言うことがそのまま行為になる発話を、Austin は performative(遂行的発話)と呼んだ。世界のありさまを述べ、真偽を問える発話は constative で、立命館大学の授業資料では「叙述的発話」と訳されていた。Austin の項目によれば、constative は真か偽かで評価され、performative は、うまくいったか、うまくいかなかったか(felicity と infelicity)で評価される。felicity の日本語の定訳は今回の資料では確かめられなかったので、この記事では「うまくいく」と書いておく。

言っただけでは、成り立たないことがある

結婚式とは関係のない人が、道端で見知らぬ二人に「二人を夫婦と認めます」と言っても、二人は夫婦にはならない。言葉の形は整っていても、行為として成り立っていない。

SEP の “Speech Acts” は、船に名前を付ける、結婚を宣言する、誰かを役職に任命する、会議の開会を宣言するといったことは、“Only an appropriate authority, speaking at the appropriate time and place”(ふさわしい権限を持つ人が、ふさわしい時と場所で話すときにだけ)できる、と書いている。権限のない人が船の前で勝手に名前を宣言しても、何も命名したことにはならない。Austin の項目には、すでに結婚している人の結婚や、船長ではなく事務長が執り行った式では、結婚は成立しない、という Austin の言葉も引かれていた。賭けも一人ではできない。相手が受けなければ、賭けは成立しない。

SEP によれば、こうした「うまくいかなさ」は二つに分けられる。“Failures of felicity fall into two classes: misfires and abuses.”(うまくいかない場合は二種類ある。misfire と abuse である。)日本語の定訳は今回の資料では確かめられなかったので、この記事では便宜上、それぞれ「不発」「濫用」と書く。不発は、行為そのものが成り立たない場合で、権限のない人の命名がそれに当たる。濫用は、行為は成り立っているが、その種類の行為に求められる水準を満たしていない場合で、守るつもりのない約束が例に挙がっていた。約束はしたが、誠実ではない。SEP は、誠実さを、発話行為がうまくいくための代表的な条件としている。

守るつもりのない約束も、約束としては成立している。だから、破った人に「あなたは約束した」と言える。

同じ「二人を夫婦と認めます。」という言葉を、二つの場面で比べた図。結婚式で、式を執り行う権限のある人が言えば成立し、二人は夫婦になる。道端で、権限のない人が見知らぬ二人に言っても、行為そのものが成り立たない不発(misfire)になる。言葉はまったく同じで、違うのは場面と権限だけであることを示している

「窓を閉めてもらえますか」で起きている三つのこと

部屋が寒い。私は近くの人に言う。

窓を閉めてもらえますか。

このとき、少なくとも三つのことが起きているように見える。私は、意味のある日本語の文を口にした。その文を言うことで、相手に依頼をした。その結果として、相手が立ち上がって窓を閉めた。あるいは、少し面倒に感じたかもしれない。

Austin はこの三つを分けて考えた。意味のある文を発すること自体が locutionary act(発語行為)、その発話で依頼や約束や警告をすることが illocutionary act(発語内行為)、その結果として相手の気持ちや考えや行動に何かを引き起こすことが perlocutionary act(発語媒介行為)である。訳語は、立命館大学の授業資料にならった。

「窓を閉めてもらえますか。」という発話で起きている三つのことを示した図。意味のある文を言ったことが発語行為(locutionary act)、その発話で依頼したことが発語内行為(illocutionary act)、相手が窓を閉めた、あるいは少し面倒に感じたことが発語媒介行為(perlocutionary act)。依頼は言った時点で成り立ち、相手が閉めたかどうかは相手がどう動いたかで決まる

SEP の Austin の項目には、こんな例があった。「夕食までには帰る」と約束する場合と、「夕食までには帰る」と述べる場合。内容は同じだから、発語行為としては同じだが、一方は約束で、もう一方は陳述である。発語内行為が違う。また、氷が薄いと警告すれば、それは一つの発語内行為で、その警告によって誰かに氷を避けさせることもあれば、かえって危険を冒す気にさせることもある。それが発語媒介行為になる。

SEP の “Speech Acts” は、ドアを閉めるよう相手に促すことは発語内行為で、相手を説得して閉めさせることは発語媒介行為だ、と書いていた。促すことは言った時点で成り立つが、説得できたかどうかは、相手がどう動いたかで決まる。Austin の項目は、この区別の必要性はいまでは広く受け入れられていて、おそらく Austin の後の研究への中心的な貢献だろう、としている。

前回の含意と、どこが違うのか

「窓を閉めてもらえますか」は、文の形だけを見れば、相手に窓を閉める能力があるかを尋ねる質問だ。それでも、ほとんどの場面で依頼として受け取られる。

これは、前回見た含意とよく似ている。実際、SEP の “Speech Acts” は、「塩を取れますか」という質問がふつうは依頼として受け取られる例を、間接発話行為(indirect speech acts)として紹介し、こうした例は会話の含意の枠組みの中で説明できるかもしれない、と述べている。Searle の間接発話行為の説明も、その言葉は使っていないが、会話の含意の考え方で組み立てられている、とある。

含意と発話行為は、きれいに別の領域に分かれているわけではない。それでも、問いの向きは少し違う。前回の問いは、言っていない意味がどうやって伝わるのか、だった。今回の問いは、言うことで何が行われているのか、である。「約束します」には、隠れた意味はほとんどない。それでも、言ったことで約束が生まれている。

二つに分ける試みは、うまくいかなかった

ここまでだと、言葉には「真偽を述べる言葉」と「行為をする言葉」の二種類があるように見える。ところが、話はそう単純ではなかった。

SEP の Austin の項目によれば、Austin の講義録の多くは二つを区別する試みに費やされているように見えるが、その試みはどれも成功していない。何かを述べようとする発話にも、不発や濫用がありうる。逆に、「牛が突進してくるぞ」と警告して、牛が突進してこなければ、その警告は、うまくいかなかったというより、間違っていたと批判されうる。

この経過について Longworth は、“A more plausible interpretation”(より妥当な解釈)として、区別の試みが失敗するのを通して、文を遂行用と叙述用にきれいに振り分けるような単純な区別はない、と論じることこそが Austin の目的だった、という読みを示している。最初の区別が崩れたところから、Austin は先ほどの三つの行為を区別するモデルを組み立てた、と説明されている。立命館大学の授業資料も、Austin の議論の第二段階を「すべての言語使用は行為遂行である」とまとめていた。何かを述べることも、また一つの行為だということになる。

その後の議論も、一つにまとまってはいない。Austin は、行為が成り立つには、決まった人が決まった状況で決まった言葉を言う、受け入れられた慣習的な手続きが必要だと考えた。SEP によれば、Searle も、発話行為を構成的な規則(constitutive rules)に従って文を発することとして捉えた。これに対して P. F. Strawson は、懇願するための決まった姿勢や手続きはありうるとしても、懇願はそうした慣習に従わなければできないものではない、と論じた。SEP の “Speech Acts” の著者自身は、意図があるだけでは足りない、とも書いている。約束や依頼をしようと意図するだけでは、約束や依頼にはならない。

Searle については、今回は SEP を通して見えた範囲しか分からなかった。SEP は、Searle と D. Vanderveken が、未来の、自分がどうにかできることしか約束できないという内容の条件や、約束なら意図を、謝罪なら後悔を表すという誠実性の条件などを整理したことを紹介している。Searle が Austin の分類を批判して新しい分類を示したことにも触れているが、その中身は今回読んだ本文には書かれていなかった。

発話行為論の全体を見渡す記事ではないので、ここから先は追わない。興味を持った人は、Austin、Searle、「言語行為論」「発話行為論」などで調べると、入門的な解説が見つかるはずだ。

言うことは、引き受けること

今回いちばん考えさせられたのは、約束のような特別な言葉だけでなく、ふつうに何かを述べることにも、引き受けるものがある、という見方だった。

SEP の “Speech Acts” は、発話行為には “intentional undertaking of a publicly accessible commitment”(公に確かめられるコミットメントを、意図して引き受けること)が含まれる、という考え方を示している。何かを断言した人は、「どうしてそれを知っているのか」と問われうる。答えられなければ、言ったことを取り下げなければならない。推測として言った場合は、十分な根拠を示せという問いにまで答える責任は負わない、とされている。約束については、その特徴的な目的は、将来のある行為に自分をコミットさせることだ、と書かれていた。

そう考えると、「誰が、何を、どの強さで引き受けたのか」という問いが自然に出てくる。

資料の上の「約束します」

ここからは、発話行為論そのものを文書に当てはめるのではなく、そこから得た「この言葉で、何が行われているのか」という視点を、資料へ持ち帰って考えてみたい(以下は、いずれも仮の例である)。

ある報告書の最後に、こう書かれている。

今後、必ず改善します。

これは、将来こうなるだろうという予測なのか。それとも、組織が改善を約束しているのか。約束なら、改善されなかったとき、読み手は「約束したはずだ」と言える。予測なら、外れたというだけになる。同じ一文でも、どちらの行為として読むかで、書き手が引き受けたものの重さが変わる。

報告書の最後のページにある「今後、必ず改善します。」という一文を、二通りに読んだ図。予測として読めば「改善されるだろう」という見通しで、外れたら「見通しが外れた」で終わる。約束として読めば組織が改善を引き受けたことになり、改善されなければ「約束したはずだ」と言える。どちらの行為として読むかで、書き手が引き受けたものの重さが変わる。仮の例

別の資料には「当社はこの方針を採用します」とある。すでに決まったことの報告かもしれない。けれども、この資料が会議で承認されたものなら、資料そのものが決定を外に示す行為になっている可能性もある。資料の中では、「〜と考えられます」は述べ、「〜すべきです」は勧め、「〜をご確認ください」は頼んでいる。「〜を実施します」は、約束か、決定か、予定の報告かもしれない。

そして、命名や任命と同じように、ここにも「その人に、それをする権限があるのか」という問題がある。担当者が取引先に「会社として保証します」と書いたとき、その担当者に会社を代表する権限がなければ、その保証はどうなるのか。権限のない人の命名のように不発なのか、別の形で何かが引き受けられたことになるのか。今回読んだ資料は、命名や任命のような制度的な場面は扱っていたが、組織の名義で書かれた文章の話し手が誰なのかは扱っていなかった。

意味の監査との接続

ここからは、私の側の考察として書く。

資料を読むときには、何が書かれているか、そこから何が伝わるかに加えて、その文章で何が行われているかを見ることができる。述べているのか、勧めているのか、約束しているのか、決めているのか、頼んでいるのか。そして、それを行っているのは誰なのか。

意味の監査には Commitment という段がある。Workflow v1.0 では、成果物がある意味を判断・結論・推奨として採用することと定義され、その強さ(断定、推奨、可能性の提示、留保付き)が根拠の状態に見合っているかを確かめる。推論や可能性が判断・結論・推奨として採用される場合を記録する COMMITMENT_ESCALATION という Finding Type もある。

なぜ Commitment という段が要るのか。発話行為論を読んで、その理由の一つが見えた気がする。成果物は情報を並べているだけではなく、何かを断言し、勧め、ときには約束し、決定している。そのたびに何かを引き受けている。だから、何が書かれているか、何が推論されるかとは別に、成果物が最終的に何を引き受けたのかを見る段がある。

ただし、二つは同じものではない。発話行為論が扱っているのは、主に話し手が発話によって行う行為と、その成立条件である。意味の監査の Commitment は、成果物の中でどの意味が判断・結論・推奨として採用され、その強さが根拠に見合っているかを見る段である。今の Workflow v1.0 は、断定と推奨の区別や強さの段階は扱っているが、約束、決定、依頼といった行為の種類を区別して記録する仕組みは持っていない。そこを分けて記録する必要があるかどうかは、まだ分からない。

もう一つ、今の Commitment は「成果物が」採用すると書いている。発話行為論からは、「誰が」「どんな権限で」という問いが返ってくる。意味の監査は書き手の意図を判定しないが、誰の名義で、どんな立場から示されたかは、成果物の上で確かめられる手がかりかもしれない。

AI が「約束します」と書いたとき

AI に問い合わせをしたら、「確認して対応します」「お約束します」と返ってきたとする。これは、誰の発話行為なのだろう。

AI 自身が約束したのか。AI を提供している事業者なのか。AI で文章を作り、それを送った利用者なのか。それとも、そもそも約束という行為は成り立っていないのか。

今回読んだ SEP の二つの項目には、AI や機械が話し手になる場合についての議論は見つからなかった。ここは、分からないこととして残しておく。

意味の監査から見た地図(第5回)

これまでと同じく、左に意味の監査の段、右に今回の学問から投げかけられる問いを置く。発話行為論の考え方を、意味の監査の段に挿入したのではない。今回は、問いが Commitment の段に集まった。

意味の監査の五つの段と、発話行為論から投げかけられる問いを並べた見取り図。Evidence / Source(「今後、必ず改善します」という一文)には「実際に何と言ったのか/誰の名義で書かれているのか」。Interpretation(文として何を述べているか)には「文として何を意味しているのか/同じ内容で、どんな行為がありうるか(予測か、約束か)」。Inference / Warrant(この一文から、何が決まったと言えるか)には「その言葉から、どこまで判断できるのか」。Context / Pragmatics(報告書の最後に、組織の名義で置かれている)には「誰が、どんな状況・立場で言ったのか/その人や組織に、その行為をする権限はあるのか」。Commitment(資料として改善を約束しているか)には「その発話によって、何を述べ・勧め・約束し・決め・頼んだのか/誰が、何を引き受けたことになるのか」。Commitment の段を最も強く、Context / Pragmatics の権限の問いを副次的に強調している。既存の段に問いを重ねたもので、新しい仕様ではない

注記: 右の問いは、発話行為論の正式なモデルではなく、今回読んだ範囲から私が拾った問いである。

今回分かったこと

  • 言葉は世界のありさまを述べるだけでなく、言うこと自体が約束や命名や謝罪といった行為になる場合がある。Austin はそこから出発した。
  • そうした行為は、言っただけでは成り立たないことがある。権限や場面、誠実さ、場合によっては相手の受け入れなど、行為ごとに違う条件が関わっていて、成り立たない場合(この記事でいう不発)と、成り立つが欠陥のある場合(濫用)が区別されていた。
  • 同じ内容でも、約束として言うか、陳述として言うかで、している行為は違う。文を発すること、その発話で何かをすること、その結果として相手に何かが起きることは、分けて考えられる。
  • 「述べる言葉」と「行為する言葉」をきれいに二つに分けることはできない、というのが Austin の議論の行き着いたところだと読まれている。何かを述べることにも、引き受けるものがある。
  • 意味の監査の Commitment は、成果物が何を引き受けたのかを見る段として、発話行為論と接点がありそうだ。ただし、二つは同じ概念ではない。

まだ分からないこと

  • 組織の名義で書かれた文章では、誰が発話行為の主体なのか。今回の資料は、制度的な権限は扱っていたが、組織そのものが話し手になる場合は扱っていなかった。
  • 権限のない人が書いた「保証します」は、成果物の上でどう扱えばよいのか。不発として扱うのか、別の形の Commitment として記録するのか。
  • AI が生成した「約束します」は、誰の約束なのか。そもそも約束として成り立っているのか。
  • 意味の監査の Commitment は、発話行為論のどの概念と、どこまでつながるのか。約束・決定・依頼のような行為の種類を区別して記録する必要があるのか。

次回

約束は、話し手と聞き手が同じ場所にいるときには分かりやすい。誰が言ったのか、どんな立場だったのか、その場で確かめられる。

けれども、私たちが読む文章の多くは、書かれた時も場所も、書いた人の状況も、読む側からは遠く離れている。何年も前の報告書の「必ず改善します」を、いま読む人は、どう理解すればよいのだろう。

次は、読むとは書かれた意味を取り出すことなのか、という問いを持って、解釈学を訪ねる。


出典

引用した英文の日本語訳は筆者による。Austin の How to Do Things with Words(1962、邦訳『言語と行為』坂本百大訳、大修館書店)、Searle の Speech Acts(1969)や間接発話行為・発話行為の分類についての論文、Searle と Vanderveken の共著、Strawson の論文などの原典は、今回は読んでいない。Austin の講義の例と言葉は SEP の項目に引用・紹介されているものによる。

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