「もう遅いですよ」と言われた。何が伝わったのか――Meaning Auditから意味論と語用論を訪ねる

同じ「もう遅いですよ」でも、来客と締切と夜更かしでは伝わる意味が違う。文そのものの意味と、文脈の中で伝わる意味は、どこで分かれるのか。調べてみると、その境界自体に議論があった。シリーズ「意味の地図をつくる」第3回は意味論と語用論を訪ねる。

「もう遅いですよ」

同じ一言が、三つの場面で言われたとする。

一つ目。夜遅くまで、自宅に来客がいる。話が盛り上がって、気づけば日付が変わりそうだ。家の人が言う。

もう遅いですよ。

聞いた側は、たぶん「そろそろ帰った方がよさそうだ」と受け取る。

二つ目。企画書の締切が明日に迫っている。それなのに、まだ方向性を迷っている。上司が言う。

もう遅いですよ。

こちらは、「今から方針を変えるのは難しい」という意味に聞こえる。

三つ目。子どもが夜更かしをしている。親が言う。

もう遅いですよ。

これは、「そろそろ寝なさい」に近い。

どの場面でも、文字として書かれている文は同じだ。それなのに、受け取る意味はずいぶん違う。

同じ「もう遅いですよ」という文が、来客・締切・夜更かしの三つの場面で異なる意味として受け取られることを示す図。来客では「そろそろ帰った方がよさそうだ」、締切では「今から方針を変えるのは難しい」、夜更かしでは「そろそろ寝なさい」。来客と夜更かしの「遅い」は時刻が遅いという意味だが、締切の「遅い」は時機を過ぎているという別の意味で使われている

では、「もう遅い」という文そのものの意味と、その場で相手が受け取った意味は、同じものなのだろうか。

文そのものは、何を言っているのか

いったん、誰が、どこで言ったかを外して考えてみる。

「もう遅いですよ」という文は、文として何を言っているのか。

一つ目と三つ目の場面では、「時刻が遅い」と読める。二つ目の場面は少し違って、「間に合う時機を過ぎている」と読める。同じ「遅い」でも、語そのものに二つ以上の意味がありうる。

こうした、語や文がどんな意味を持つのかを考える領域が、semantics(意味論)と呼ばれている。

今回の入口は、Stanford Encyclopedia of Philosophy(SEP)の “Pragmatics” という項目(Kepa Korta と John Perry)だった。意味論の側は、同じ事典の “Theories of Meaning”(Jeff Speaks)で確かめた。今回も、専門家として解説するのではなく、読んで理解できた範囲を記録する。

“Theories of Meaning” によれば、「意味の理論」という言葉は、哲学の中でかなり多くの違うものを指してきたという。その項目は焦点を二つに絞っていて、一つ目を、言語の表現に意味の内容を割り当てる理論、つまり意味論の理論としている。語や文に、どんな意味が対応するのか。今回の問いに関わるのは主にこちらだ。

でも、会話では文だけを読んでいない

前回は、「誰が言ったか」と「その人は何を根拠に言ったか」を分けて考えた。今回、「もう遅いですよ」を考えていて気づいたのは、その人が何を言ったかが分かっても、まだ意味は決まりきらない、ということだった。

実際に会話をするとき、私たちは文だけを読んでいるわけではない。

誰が言ったか。いつ言ったか。どこで言ったか。直前に何が起きていたか。相手との関係はどうか。そういう情報も、ほとんど無意識に使っている。来客に向けた「もう遅いですよ」と、子どもに向けた「もう遅いですよ」が別の意味になるのは、そのせいだ。

SEP の “Pragmatics” は、印象的な引用から始まっていた。外交官が「はい」と言えば「たぶん」の意味で、「たぶん」と言えば「いいえ」の意味で、「いいえ」と言ったなら、その人は外交官ではない。項目はこの冗談を引いたうえで、私たちが伝えていることには、文字どおりに言ったこと以上のものが含まれている、と続ける。

そして、語の意味、話し手がその語で意味していること、発話の状況、意図、行為、そして実際に伝わったものは、互いにどういう関係にあるのか。こうした問いが、だいたいのところ pragmatics(語用論)という分野を特徴づけている、という。

名前は少し堅い。でも、問い自体はかなり日常的だ。

「その言い方で、本当は何が言いたかったの?」

項目の本文は、“Pragmatics deals with utterances”(語用論は発話を扱う)と書き出している。ここでいう発話は、特定の話し手が、特定の時と場所で行う、具体的な出来事のことだ。これに対して、論理学や意味論は伝統的に、発話ごとに変わらない、表現そのものの性質を扱ってきた、とある。項目はさらに、語用論は文脈の効果を扱うものと特徴づけられることもある、と書いている。

ここまで読んで、最初に思っていた整理は、こういうものだった。

意味論は、文そのものの意味。語用論は、文脈の中での意味。

入門の整理としては便利だと思う。ただ、読み進めると、この二つにきれいに分けられるかどうか自体が、かなり怪しくなってきた。

「私は明日ここに来ます」

それに最初に気づいたのは、こういう文を考えたときだった。

私は明日ここに来ます。

この一文だけでは、何が言われているのか分からない。私は誰なのか。明日はいつなのか。ここはどこなのか。

「私は明日ここに来ます。」という文のうち、「私」「明日」「ここ」の三語を強調し、それぞれに「誰?」「いつ?」「どこ?」と注記した図。文脈がないと、文が何を指しているか自体が決まらないことを示している

「もう遅いですよ」の場合、文脈は「帰ってほしい」のような、文に書かれていない意味を足していた。ところが「私は明日ここに来ます」では、文脈がないと、文そのものが何を指しているのかが決まらない。文脈は、言外の意味を足すだけでなく、文が言っていること自体を決める場合もある。

SEP には、こうした語を扱う “Indexicals”(David Braun と Alexandru Radulescu)という項目があった。冒頭はこう説明している。“An indexical is, roughly speaking, a linguistic expression whose reference can shift from context to context.”(指標詞とは、大まかに言えば、文脈によって指すものが変わりうる言語表現のことである。)例として、「あなた」「私」「ここ」「今日」「昨日」「彼」「彼女」「あれ」が挙がっている。

同じ「おなかがすいた」でも、ジョンが言えばジョンが空腹だということになり、メアリーが言えばメアリーが空腹だということになる。項目によれば、多くの哲学者は、指標詞には二種類の意味があると考えているという。いつも変わらない言語的な意味と、文脈ごとに変わる内容である。「私」という語の意味は誰が使っても同じだが、「私」が指す人は、言う人によって変わる。

そして、ここで “Pragmatics” の項目に戻ると、意外な整理がされていた。

境界は、思っていたより引きにくかった

“Pragmatics” の項目は、語用論を二つに分けて説明している。near-side pragmatics と far-side pragmatics である。

基準になるのは、話し手が「言ったこと」(what is said)だ。far-side(向こう側)の語用論は、言ったことの先で起きることを扱う。言うことで何を行っているのか、言ったことから何が伝わるのか。near-side(手前側)の語用論は、そもそも何が言われたのかを決めるのに関わる事実を扱う。

near-side に入るものとして挙がっていたのが、曖昧さの解消、固有名や指標詞が何を指すか、などだった。「私」「今」「ここ」が何を指すかを決めるには、話し手は誰か、いつどこで言われたか、という発話についての事実が必要になる、と項目は書いている。

つまり、「私は明日ここに来ます」が何を言っているかを決める作業も、二つ目の場面の「遅い」が時刻のことか時機のことかを決める作業も、語用論の仕事の一部として扱われていた。私が「文そのものの意味」の側に置いていたものの中に、すでに文脈が入り込んでいたことになる。

項目によれば、古典的な時期には、「言われたこと」を意味論の出力とし、その先で伝わることを語用論とする、かなりはっきりした区別ができるという前提があった。「言われたこと」は一種の境界で、意味論はその手前、語用論はその向こう、という図式である。ところが項目は、この前提が “increasingly undermined by developments in pragmatics itself”(語用論そのものの発展によって、次第に崩されてきた)と書いている。

その先の節は、“Border Disputes”(国境紛争)という見出しだった。項目の例では、ジョンがスタンフォードの屋外で、遠くにいる相手と電話をしながら「雨が降っている」と言う。ジョンが言ったのは、おそらく「スタンフォードで雨が降っている」ということだ。けれども「スタンフォード」という語は、文のどこにも出てこない。それでも、言われたことの一部に見える。これをどう扱うかで、意味論の領分をできるだけ保とうとする立場と、あらゆる段階に語用論が入り込んでいると考える立場が分かれている、という。

項目は、多くの論者が認めていることとして、「何が言われたか」についての直観だけでは理論上あまり重みを持てない、と書いたうえで、こうした文に書かれていない内容の理論的な解釈については “considerable disagreement”(かなりの意見の相違)がある、と続けている。

さらに項目の最後の節は、まるごと、語用論のさまざまな定義を並べたものだった。記号と解釈者の関係とする定義もあれば、言語の使い手に言及するなら語用論、使い手から離れて表現と指示対象だけを見るなら意味論、という定義もある。そして項目自身が、このリストも網羅的ではないと断っている。

最初は、意味論と語用論は簡単に二つに分けられると思っていた。調べてみると、その境界そのものに議論があった。前々回、「知っている」の定義に合意がなかったことに驚いたが、今回も似た驚きがあった。

同じ「売上は回復しました」

ここで、言葉の場面から、資料の場面に移ってみる。

ある会社の資料に、こう書いてあるとする(会社も数字も、仮の例である)。

売上は回復しました。

文だけを見れば、売上が以前より良くなった、という意味に読める。

でも、その文の上に、大きな見出しで

完全復活へ

と書かれていたらどうだろう。

あるいは、すぐ横に「前年同期比 −8%」という棒グラフが置かれていたらどうだろう。

見出しが「完全復活へ」なら、読む人は、もう元の水準に戻ったか、戻る直前だと受け取りやすい。けれどもグラフは、前の年の同じ時期と比べるとまだ下回っていることを示している。本文の「回復しました」は、たとえば前の四半期と比べた話かもしれない。

逆に、見出しが

回復にはまだ時間

だったら、同じ「売上は回復しました」が、ずいぶん控えめな報告に見える。

本文の文は一字も変わっていない。それなのに、見出し、前後の文章、グラフ、配置、想定している読者、資料の目的によって、受け取られる意味が変わる。「もう遅いですよ」で起きていたことと、よく似たことが、資料の上でも起きている。

同じ本文「売上は回復しました。」と同じ「前年同期比 −8%」の棒グラフを持つ二枚の資料の比較図。左の資料の見出しは「完全復活へ」、右の資料の見出しは「回復にはまだ時間」。本文も数字も同じでも、見出しと置かれ方によって資料全体の読まれ方が変わることを示している。会社も数字も仮の例

意味の監査との接続

ここからは、私の側の考察として書く。

意味の監査には、Context / Pragmatics という段がある。第1回と第2回の図では、焦点を絞るために、この段を省いてきた。今回、ようやくその段が前に出てくる。

意味の監査の用語集では、Context / Pragmatics を、見出し・配置・語彙・図・想定読者など、表現の置かれ方によって生じる意味、と定めている。Pragmatics と、読み手や文脈(Audience / Context)は概念上は別のものだが、v1.0 では同じ段でまとめて扱う、とも書いてある。

「売上は回復しました」の例を、意味の監査の段に沿って見ると、こうなる。

まず、資料の中に何があるかを確かめる。本文の「売上は回復しました」、見出しの「完全復活へ」、グラフの「前年同期比 −8%」。三つとも、資料の上に実際にある表現で、Evidence / Source の段で扱う。ここで確かめているのは、資料にそう書かれていることまでだ。「売上は回復しました」という文も、この段階では検証済みの事実ではなく、資料に書かれた一つの主張として扱う。

次に、それぞれの表現が単独で何を意味するかを見る。「回復」は、前の月と比べた回復なのか、前の四半期と比べた回復なのか、前の年の同じ時期と比べた回復なのか。これは Interpretation の段の問題になる。

そのうえで、三つの表現がどう置かれているかを見る。見出しは本文の上に大きく置かれ、読者は先にそれを読む。グラフは本文のすぐ横にある。誰に向けた資料で、何のための資料なのか。Context / Pragmatics の段で見るのは、「完全復活へ」という文字列そのものではなく、こうした置かれ方、組み合わせ、読まれる順番によって、資料全体に加わる意味のほうだ。見出しが本文より先に、より大きく読まれることで、本文にもグラフにも書かれていない強さが加わる。

最後に、資料全体として、読者に「事業はもう大丈夫だ」「完全に回復した」という意味を受け取らせる状態になっているか、成果物としてその意味を引き受けているかが、Commitment の段で問われる。

意味の監査がこの段を持っている理由は、こういう場面を見落とさないためだと思う。一つひとつの表現を確かめるだけでは、どれも資料に書かれたとおりの言葉として成り立っている。それでも、それらの置かれ方によって、資料として伝わった意味に、どの表現も単独では言っていない強さが加わっていることがある。

ただし、ここでも、意味の監査の Pragmatics と、学問としての語用論は、同じものではない。

今回読んだ範囲では、語用論が扱っているのは主に発話、つまり話し手が特定の時と場所で行う言語行為だった。意味の監査の Context / Pragmatics は、見出しやグラフ、配置といった、文書の上での置かれ方をまとめて見る段で、図やレイアウトによる意味も含めている。重なっているのは、「同じ表現でも、置かれた状況によって伝わる意味が変わる」という見方だと思う。どこまで重なり、どこから違うのかは、今回の資料だけでは確かめきれなかった。

もう一つ、今回の調査から意味の監査の側に戻ってきた問いがある。語用論では、文脈は言外の意味を足すだけでなく、「何が言われたか」を決めるところにも入っていて、意味論との境界そのものが争点になっていた。それを知って、意味の監査の Interpretation と Context / Pragmatics は、本当にきれいに切り分けられるのだろうか、と考えるようになった。「回復」を何と比べた回復として読むかを決めるときにも、すでに資料の置かれ方を手がかりにしているかもしれないからだ。二つの学問の境界の話と、意味の監査の段の話が同じ問題だと言いたいわけではない。仕様を変えるという話でもない。今回は、二つの段が重なりうるかどうかを、これから確かめる問いとして残しておきたい。

意味の監査から見た地図(第3回)

前回までと同じく、左に意味の監査の段、右に今回の学問から投げかけられる問いを置く。今回初めて、Context / Pragmatics の段に問いが入る。意味論・語用論の考え方を、意味の監査の段に挿入したのではない。

意味の監査の五つの段(Evidence / Source、Interpretation、Inference / Warrant、Context / Pragmatics、Commitment)と、意味論・語用論から投げかけられる問いを並べた見取り図。Evidence / Source には本文・見出し・グラフの表現そのものを、Context / Pragmatics には見出しが上に大きく先に読まれ、グラフが本文の横にあるという置かれ方を置き、Context / Pragmatics の段を強調している。第3回で得た問いを既存の段に重ねたもので、新しい仕様ではない
第3回で得た問いを、意味の監査の既存の段に重ねた見取り図。下の表と同じ内容。
意味の監査の段(例)意味論・語用論から投げかけられる問い
Evidence / Source(本文「売上は回復しました」、見出し「完全復活へ」、グラフ「前年同期比 −8%」)実際に書かれている言葉は何か
Interpretation(「回復」は何と比べた回復か)この語・文は、文脈なしで何を意味しうるか/語に複数の意味はないか/何を指しているかは、文脈なしで決まるか
Inference / Warrant(本文とグラフから何が言えるか)書かれていることから、どこまで読み取ってよいか
Context / Pragmatics(見出しが本文の上に大きく置かれ、グラフが本文の横にあるという配置・組み合わせ)誰が・誰に・どんな状況で、どんな見出し・図・配置とともに示したかによって、何が加わるか
Commitment(資料として「事業はもう大丈夫だ」を採用しているか)最終的に、成果物は読者に何を受け取らせているか

注記: 右の問いは、意味論・語用論の正式なモデルではなく、今回読んだ範囲から私が拾った問いである。語用論では、文脈が「何が言われたか」を決めるところにも入ってくるため、Interpretation の段にも語用論からの問いを置いた。見出しやグラフは、表現としては Evidence / Source の段に、置かれ方による意味としては Context / Pragmatics の段に、それぞれ置いている。

今回分かったこと

  • 文に書いてある意味と、実際の場面で伝わる意味は、同じとは限らない。
  • 文脈は、言外の意味を足すだけでなく、「私」「ここ」「明日」が何を指すかや、語のどの意味で使われているかを決める場合もある。
  • 意味論は文そのもの、語用論は文脈の中での意味、と二つに分けると分かりやすい。けれども、その境界自体に議論があり、語用論が「何が言われたか」の手前にまで入り込んでいる、という整理がされていた。
  • 意味の監査の Context / Pragmatics は、見出しや図そのものではなく、それらの置かれ方・組み合わせ・読まれる状況によって生まれる意味を見るための段として置かれている。
  • ただし、意味の監査の Pragmatics と、学問としての語用論は、同じ概念とは言えない。

まだ分からないこと

  • 「もう遅いですよ」から、なぜ「帰った方がいい」まで読み取れるのか。文に書かれていない意味を、聞き手はどうやって受け取っているのか。(次回)
  • 意味論と語用論の境界は、結局どこに引かれているのか。今回は「議論がある」ところまでしか読めていない。
  • 意味の監査の Context / Pragmatics という名前は、学問としての語用論とどこまで重なっているのか。とくに、図や配置による意味は、語用論の議論の中でどう扱われているのか。(記号論を訪ねる第7回で再訪したい)
  • 意味の監査の Interpretation と Context / Pragmatics は、本当にきれいに切り分けられるのか。二つの段が重なりうるかどうかは、これから確かめる問いとして残す。

次回

「もう遅いですよ」と言われて、なぜ私は「そろそろ帰った方がいい」と受け取るのだろう。その一言には、「帰ってください」とは書かれていない。

次は、この「言っていないのに伝わる」を考えた、Grice と含意を訪ねる。


出典

引用した英文の日本語訳は筆者による。外交官の言葉は “Pragmatics” の項目の冒頭に引用されているもの(項目では Voltaire の言葉とされ、Mencken や Jung のものとも言われると注記されている)で、原典は読んでいない。項目内で言及されている Kaplan、Perry (1986)、Cappelen と Lepore (2005) などの原典も読んでいない。

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