AのあとにBが起きた。だからAが原因なのか?――Meaning AuditからHumeの因果論を訪ねる

「広告費を増やした。翌月、売上が上がった。だから、広告が効いた。」最初の二文と最後の一文は、同じ種類の文ではない。Hume の因果論を訪ね、「AのあとにBが起きた」と「AがBを起こした」のあいだにある見えない「だから」を考える。シリーズ「意味の地図をつくる」第10回。

広告費を増やした。売上が上がった。

月例の報告書に、こんな三行があった。

広告費を増やした。
翌月、売上が上がった。
だから、広告が効いた。

読んで、引っかかるところはほとんどない。たぶん私も、同じように書く。

ところが、よく見ると、最初の二つと最後の一つは同じ種類の文ではない。

広告費を増やしたことは、記録に残っている。売上が上がったことも、その順番も分かる。

でも「広告が効いた」は、どこにも記録されていない。書いた人が、二つの出来事のあいだに一本の線を引いている。

季節のせいかもしれないし、大口の注文のせいかもしれない。そういう別の説明の話は第8回でした。今回気になるのは、もっと手前のことだ。この線は、そもそも何なのだろう。

第9回では、「だから」の中に Warrant という橋があることを見た。今回は、その橋に「原因」と書いてある場合を見てみたい。

原因を、変な角度から眺めた人

ここで、18世紀スコットランドの哲学者 David Hume が出てくる。

Hume は、私たちがあまりに普通に使っている「原因」という言葉を、かなり変な角度から眺めた。

ビリヤード台を思い浮かべてほしい。

玉Aが転がって、玉Bにぶつかる。玉Bが動き出す。

私たちは迷わず「AがBを動かした」と言う。

でも Hume によれば、玉Aの動きをどれだけ細かく調べても、その中に玉Bの動きは見つからない。Bの動きは、Aの動きとはまったく別の出来事だ。一つの場面をどれだけ見つめても、見えるのは、ある出来事のあとに別の出来事が続く、ということだけだという。

一回そうなったのを見ただけで「Aが原因だ」と決めるのは理にかなっていない、とも Hume は書いている。

「必ずそうなる」は、どこにあるのか

では、「AがぶつかればBは必ず動く」という感じは、どこから来るのか。

この「必ずそうなるつながり」を、Hume は necessary connection(必然的結合)と呼び、その出どころを探した。

答えはこうだ。似た場面を何度も見るうちに、Aを見るとBを思い浮かべるように、心のほうが動くようになる。その心の動きが、「必ずそうなる」という考えの出どころだという。一回きりの場面からは、この考えは出てこない。

『人間本性論』には、こんな一文まである。

necessity is something, that exists in the mind, not in objects
(必然性は、対象の中ではなく、心の中にある)

最初に読んだとき、「因果関係なんて人間の思い込みだ」と言っているようにも聞こえた。

でも、読んでみると少し違った。Hume が問うているのは、「必ずそうなる」という考えがどこから来るのか、である。外の世界に「必ずそうなるつながり」があることまで Hume が否定したのかどうかは、研究者のあいだでも解釈が分かれている。

それでも、ここまでは言えそうだ。

私たちは、出来事を結ぶ「必然的なつながり」そのものを見ているわけではない。

それでも、人は次を期待する

面白いのは、ここからだ。

炎に触れて痛い思いをした子どもは、次からろうそくに手を近づけない。理屈を組み立ててそうしているのではない、と Hume は言う。子どもは経験から、似たものには似たことが起きると期待している。

似た場面が何度も重なると、Aを見ただけでBを期待するようになる。Hume はこの働きを custom、あるいは habit、つまり習慣と呼んだ。この言葉で究極の理由を説明したつもりはない、と本人が断っているのも面白い。

そして、こう書いた。

Custom, then, is the great guide of human life.
(だから、習慣こそが人間生活の偉大な導き手である)

習慣がなければ、記憶や感覚に直接あるものを超えた事実については、何も分からないことになる、とまで Hume は言う。

この書き方からは、習慣を、人を間違わせるものとして持ち出しているようには読めない。理屈で未来を証明できなくても、人は過去の経験から次を期待して生きている。Hume はそれを、そのまま見つめているように見える。

「因果は人間の思い込み」というより、「人間はこうやって因果を期待するのか」と読む方が、私には近かった。

昨日までそうだった。だから明日も?

ここで、もう一つ厄介な問いが出てくる。

パンを食べて栄養になった。昨日も、その前も、そうだった。だから明日のパンも栄養になるはずだ。

では、「昨日までそうだった」ことだけで、「明日もそうだ」をどう証明するのか。「これまでずっとそうだったから」と答えると、未来も過去と同じように進むことを、すでに前提にしてしまう。Hume は、この循環を指摘した。今では「帰納の問題」と呼ばれている問いである。

それでも Hume は、だから予想するのをやめよ、とは言わない。どんな理屈が出てきても、人は経験から次を予想し続ける。その一歩を担っているのが、さっきの習慣だ。

報告書の「だから」に戻る

広告の報告書に戻ろう。

記録されているのは、広告費が増えたこと、売上が上がったこと、その順番だ。「広告が効いた」は、そのあいだに引かれた線である。

「AのあとにBが起きた」と、「AがBを起こした」のあいだには、見えていない「だから」がある。

第9回の言葉を使えば、この「だから」も Warrant である。今回は、その橋に因果関係が入っている。因果の Warrant と呼んでおこう。

同じ二つの記録を左右に並べた図。左の「記録にあること」は、「広告費を増やした」と「売上が上がった」を、「そのあと」とだけ添えた細い矢印で結んでいる。右の「報告書が言っていること」は、同じ二つの枠のあいだに、赤い点線の枠で「広告が効いた」を挟み、「因果の Warrant」「記録には書かれていない」と添えている。記録は同じで、違うのは、そのあいだに引かれた線だけであることを示す。広告費と売上は筆者の例で、説明のための簡略図

その橋を支えるものは、いろいろありうる。前にも広告を増やして売上が伸びた経験かもしれないし、業界の知識かもしれない。広告を出した地域と出さなかった地域を比べたのかもしれないし、広告から購入までの道筋を説明できるのかもしれない。ほかに有力な説明が見当たらない、ということもあるだろう。三行の報告書からは、そのどれなのかが分からない。

Hume の「習慣」と、意味の監査の Warrant は、同じものではない。Hume が見ているのは、人間が期待を作る仕組みだ。意味の監査が見るのは、文書の中で根拠から判断へ進む橋である。

疑い始めると、どこまでも掘れる

因果を疑い始めると、理由の理由、そのまた理由まで問えてしまう。

「以前も広告で売上が上がった」と言われれば、そのときは本当に広告が原因だったのか、と問える。

その答えにも、また理由が要る。

どこまでも掘れる。

Hume を読んでいて、私はここに妙な既視感を覚えた。経験の正しさを経験で支えようとすると、ぐるりと回って元の場所に戻ってしまう。あの循環の手触りに、どこか似ている。

どこまで支えれば十分なのか

Hume を読んでも、監査をどこで止めればよいかは分からなかった。もちろん、Hume が考えていたのは監査の方法ではない。

それでも、ここから考えられることはある。

真理に到達するまで掘るのではなく、その成果物が引き受けている Commitment を支えるのに、Warrant が十分かを見る。

ここでいう Commitment は、その成果物がどんな判断・結論・推奨を引き受けているか、ということだ。

たとえば、

広告が寄与した可能性がある。

と書く報告書と、

広告が売上を引き起こした。だから予算を倍増する。

と書く報告書では、同じ根拠で十分なのだろうか。

後者は、広告が原因だと言い切り、次も同じことが起きると見込んで、お金を動かそうとしている。

では、「十分」とは何か。これには、まだ答えがない。

意味の監査から見た地図(第10回)

意味の監査の段今回の訪問から生まれた問い
Evidence / Source(広告費の記録と売上の記録)A と B について、実際に確認できるのはどこまでか
Inference / Warrant(「広告が効いた」)A が B を引き起こしたと言うための橋は何か/その橋は何に支えられているか
Commitment(報告書が引き受けていること)「関係がある」「寄与した」「原因だ」「だから予算を増やす」の、どこまで言っているか

注記: 右の問いは、今回の訪問から私が拾ったもので、Hume の理論の図式ではない。

今回分かったこと

  • 「AのあとにBが起きた」と「AがBを起こした」は、同じではない。
  • Hume によれば、一つの出来事をいくら調べても、次の出来事を必ず起こすつながりそのものは見えない。
  • それでも人は、繰り返しの経験から次を期待する。Hume はその働きを習慣と呼び、人間生活の導き手とまで書いた。
  • 報告書が因果を言い切るとき、そこには見えない橋が足されている。その橋をどこまで掘ればよいかは、まだ分からない。

まだ分からないこと

  • 因果の Warrant を、監査する人はどこまで掘ればよいのか。
  • 何をもって「十分に支えられている」と言えるのか。
  • 言い切りの強さによって、必要な支えは変わるのか。
  • 「何が原因か」と「誰の責任か」は、どう違うのか。

次回

次にどの問いへ進むかは、まだ決めていない。


出典

原典は、上記の節のうち関係する段落を読んだ(全体の通読ではない)。引用は Treatise 1.3.14.22(SBN 165)と Enquiry 5.6(SBN 44)から。日本語訳は筆者による。ビリヤードの玉(Enquiry 4.9)、一回の事例から原因を決めること(5.3)、子どもとろうそく(4.23)、パン(4.16)は Hume の例と議論による。今回読んだ節には「induction(帰納)」という語は出てこず、「帰納の問題」は後の呼び名である。外の世界に「必ずそうなるつながり」があるかをめぐる解釈の対立は、SEP の “David Hume” と IEP の項目による。広告費と売上の例は筆者による。

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