· 技術革新とデジタルトレンド · シリーズ: 意味の地図をつくる · 読了目安 11 分
AのあとにBが起きた。だからAが原因なのか?――Meaning AuditからHumeの因果論を訪ねる

広告費を増やした。売上が上がった。
月例の報告書に、こんな三行があった。
広告費を増やした。
翌月、売上が上がった。
だから、広告が効いた。
読んで、引っかかるところはほとんどない。たぶん私も、同じように書く。
ところが、よく見ると、最初の二つと最後の一つは同じ種類の文ではない。
広告費を増やしたことは、記録に残っている。売上が上がったことも、その順番も分かる。
でも「広告が効いた」は、どこにも記録されていない。書いた人が、二つの出来事のあいだに一本の線を引いている。
季節のせいかもしれないし、大口の注文のせいかもしれない。そういう別の説明の話は第8回でした。今回気になるのは、もっと手前のことだ。この線は、そもそも何なのだろう。
第9回では、「だから」の中に Warrant という橋があることを見た。今回は、その橋に「原因」と書いてある場合を見てみたい。
原因を、変な角度から眺めた人
ここで、18世紀スコットランドの哲学者 David Hume が出てくる。
Hume は、私たちがあまりに普通に使っている「原因」という言葉を、かなり変な角度から眺めた。
ビリヤード台を思い浮かべてほしい。
玉Aが転がって、玉Bにぶつかる。玉Bが動き出す。
私たちは迷わず「AがBを動かした」と言う。
でも Hume によれば、玉Aの動きをどれだけ細かく調べても、その中に玉Bの動きは見つからない。Bの動きは、Aの動きとはまったく別の出来事だ。一つの場面をどれだけ見つめても、見えるのは、ある出来事のあとに別の出来事が続く、ということだけだという。
一回そうなったのを見ただけで「Aが原因だ」と決めるのは理にかなっていない、とも Hume は書いている。
「必ずそうなる」は、どこにあるのか
では、「AがぶつかればBは必ず動く」という感じは、どこから来るのか。
この「必ずそうなるつながり」を、Hume は necessary connection(必然的結合)と呼び、その出どころを探した。
答えはこうだ。似た場面を何度も見るうちに、Aを見るとBを思い浮かべるように、心のほうが動くようになる。その心の動きが、「必ずそうなる」という考えの出どころだという。一回きりの場面からは、この考えは出てこない。
『人間本性論』には、こんな一文まである。
necessity is something, that exists in the mind, not in objects
(必然性は、対象の中ではなく、心の中にある)
最初に読んだとき、「因果関係なんて人間の思い込みだ」と言っているようにも聞こえた。
でも、読んでみると少し違った。Hume が問うているのは、「必ずそうなる」という考えがどこから来るのか、である。外の世界に「必ずそうなるつながり」があることまで Hume が否定したのかどうかは、研究者のあいだでも解釈が分かれている。
それでも、ここまでは言えそうだ。
私たちは、出来事を結ぶ「必然的なつながり」そのものを見ているわけではない。
それでも、人は次を期待する
面白いのは、ここからだ。
炎に触れて痛い思いをした子どもは、次からろうそくに手を近づけない。理屈を組み立ててそうしているのではない、と Hume は言う。子どもは経験から、似たものには似たことが起きると期待している。
似た場面が何度も重なると、Aを見ただけでBを期待するようになる。Hume はこの働きを custom、あるいは habit、つまり習慣と呼んだ。この言葉で究極の理由を説明したつもりはない、と本人が断っているのも面白い。
そして、こう書いた。
Custom, then, is the great guide of human life.
(だから、習慣こそが人間生活の偉大な導き手である)
習慣がなければ、記憶や感覚に直接あるものを超えた事実については、何も分からないことになる、とまで Hume は言う。
この書き方からは、習慣を、人を間違わせるものとして持ち出しているようには読めない。理屈で未来を証明できなくても、人は過去の経験から次を期待して生きている。Hume はそれを、そのまま見つめているように見える。
「因果は人間の思い込み」というより、「人間はこうやって因果を期待するのか」と読む方が、私には近かった。
昨日までそうだった。だから明日も?
ここで、もう一つ厄介な問いが出てくる。
パンを食べて栄養になった。昨日も、その前も、そうだった。だから明日のパンも栄養になるはずだ。
では、「昨日までそうだった」ことだけで、「明日もそうだ」をどう証明するのか。「これまでずっとそうだったから」と答えると、未来も過去と同じように進むことを、すでに前提にしてしまう。Hume は、この循環を指摘した。今では「帰納の問題」と呼ばれている問いである。
それでも Hume は、だから予想するのをやめよ、とは言わない。どんな理屈が出てきても、人は経験から次を予想し続ける。その一歩を担っているのが、さっきの習慣だ。
報告書の「だから」に戻る
広告の報告書に戻ろう。
記録されているのは、広告費が増えたこと、売上が上がったこと、その順番だ。「広告が効いた」は、そのあいだに引かれた線である。
「AのあとにBが起きた」と、「AがBを起こした」のあいだには、見えていない「だから」がある。
第9回の言葉を使えば、この「だから」も Warrant である。今回は、その橋に因果関係が入っている。因果の Warrant と呼んでおこう。

その橋を支えるものは、いろいろありうる。前にも広告を増やして売上が伸びた経験かもしれないし、業界の知識かもしれない。広告を出した地域と出さなかった地域を比べたのかもしれないし、広告から購入までの道筋を説明できるのかもしれない。ほかに有力な説明が見当たらない、ということもあるだろう。三行の報告書からは、そのどれなのかが分からない。
Hume の「習慣」と、意味の監査の Warrant は、同じものではない。Hume が見ているのは、人間が期待を作る仕組みだ。意味の監査が見るのは、文書の中で根拠から判断へ進む橋である。
疑い始めると、どこまでも掘れる
因果を疑い始めると、理由の理由、そのまた理由まで問えてしまう。
「以前も広告で売上が上がった」と言われれば、そのときは本当に広告が原因だったのか、と問える。
その答えにも、また理由が要る。
どこまでも掘れる。
Hume を読んでいて、私はここに妙な既視感を覚えた。経験の正しさを経験で支えようとすると、ぐるりと回って元の場所に戻ってしまう。あの循環の手触りに、どこか似ている。
どこまで支えれば十分なのか
Hume を読んでも、監査をどこで止めればよいかは分からなかった。もちろん、Hume が考えていたのは監査の方法ではない。
それでも、ここから考えられることはある。
真理に到達するまで掘るのではなく、その成果物が引き受けている Commitment を支えるのに、Warrant が十分かを見る。
ここでいう Commitment は、その成果物がどんな判断・結論・推奨を引き受けているか、ということだ。
たとえば、
広告が寄与した可能性がある。
と書く報告書と、
広告が売上を引き起こした。だから予算を倍増する。
と書く報告書では、同じ根拠で十分なのだろうか。
後者は、広告が原因だと言い切り、次も同じことが起きると見込んで、お金を動かそうとしている。
では、「十分」とは何か。これには、まだ答えがない。
意味の監査から見た地図(第10回)
| 意味の監査の段 | 今回の訪問から生まれた問い |
|---|---|
| Evidence / Source(広告費の記録と売上の記録) | A と B について、実際に確認できるのはどこまでか |
| Inference / Warrant(「広告が効いた」) | A が B を引き起こしたと言うための橋は何か/その橋は何に支えられているか |
| Commitment(報告書が引き受けていること) | 「関係がある」「寄与した」「原因だ」「だから予算を増やす」の、どこまで言っているか |
注記: 右の問いは、今回の訪問から私が拾ったもので、Hume の理論の図式ではない。
今回分かったこと
- 「AのあとにBが起きた」と「AがBを起こした」は、同じではない。
- Hume によれば、一つの出来事をいくら調べても、次の出来事を必ず起こすつながりそのものは見えない。
- それでも人は、繰り返しの経験から次を期待する。Hume はその働きを習慣と呼び、人間生活の導き手とまで書いた。
- 報告書が因果を言い切るとき、そこには見えない橋が足されている。その橋をどこまで掘ればよいかは、まだ分からない。
まだ分からないこと
- 因果の Warrant を、監査する人はどこまで掘ればよいのか。
- 何をもって「十分に支えられている」と言えるのか。
- 言い切りの強さによって、必要な支えは変わるのか。
- 「何が原因か」と「誰の責任か」は、どう違うのか。
次回
次にどの問いへ進むかは、まだ決めていない。
出典
- Hume, D., An Enquiry concerning Human Understanding(1748), Sections IV, V, VII. davidhume.org のテキスト https://davidhume.org/texts/e/
- Hume, D., A Treatise of Human Nature(1739–40), Book 1, Part 3, Sections 6, 14. davidhume.org のテキスト https://davidhume.org/texts/t/
- 邦訳: ヒューム『人間知性研究』斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局/ヒューム『人間本性論 第一巻 知性について』木曾好能訳、法政大学出版局、1995年(いずれも書誌のみ確認)
- Qu, H. & Radcliffe, E. S., “David Hume”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(初出 2026-06-16)https://plato.stanford.edu/entries/hume/
- Henderson, L., “The Problem of Induction”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(初出 2018-03-21、最終改訂 2022-11-22)https://plato.stanford.edu/entries/induction-problem/
- Lorkowski, C. M., “Hume, David: Causation”, Internet Encyclopedia of Philosophy https://iep.utm.edu/hume-causation/
- 澤田和範「ヒュームの因果論における必然性の観念について」(京都大学学術情報リポジトリ)https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/server/api/core/bitstreams/1cbcd1c0-ef26-4505-9a14-46bec7c756e4/content
原典は、上記の節のうち関係する段落を読んだ(全体の通読ではない)。引用は Treatise 1.3.14.22(SBN 165)と Enquiry 5.6(SBN 44)から。日本語訳は筆者による。ビリヤードの玉(Enquiry 4.9)、一回の事例から原因を決めること(5.3)、子どもとろうそく(4.23)、パン(4.16)は Hume の例と議論による。今回読んだ節には「induction(帰納)」という語は出てこず、「帰納の問題」は後の呼び名である。外の世界に「必ずそうなるつながり」があるかをめぐる解釈の対立は、SEP の “David Hume” と IEP の項目による。広告費と売上の例は筆者による。





