「知っていたはずだ」の「はず」は、どこから来るのか?――Meaning Auditから刑事事実認定を訪ねる

「担当者は、当時その問題を認識していたと考えられる。」報告書のこの一文は、記録から、誰も見ていない頭の中へ進んでいる。刑事事実認定を訪ね、外から見える事実から内心を推し量るときの「はず」という橋を考える。シリーズ「意味の地図をつくる」第11回。

「認識していたと考えられる」

社内調査の報告書に、こんな一文があった。

担当者は、当時その問題を認識していたと考えられる。

根拠も並んでいる。問題を指摘するメールが、担当者に届いていた。その翌日、担当者は承認の記録を残している。金額は、上の決裁が要らない範囲に分けられていた。

どれも、記録で確かめられることだ。

でも、その人の頭の中を見た人はいない。

メールが届いたことと、読んだことは違う。読んだことと、問題だと分かったことも違う。それでも報告書は、記録をつないで「認識していた」と書いている。

本人の頭の中は見えない。それでも私たちは、外から見える事実をつないで「知っていたはずだ」と判断する。

第10回では、原因という見えないつながりを見た。今回は、人の内心という、もう一つの見えないものを見てみたい。

裁判所も、頭の中は見ていない

この問題を、もっと厳しい条件で扱っている場所がある。裁判所である。

刑事裁判では、何をしたかだけでなく、何を知っていたか、どういうつもりだったかが問われることがある。最高裁判所が裁判員向けに作った冊子は、殺意について、こう書いている。

これは、被告人の内心のことですが、裁判では、外部に現れた事情を基に、常識的な判断をします。

裁判所も、頭の中を直接見ているわけではない。外から見える事情から、内心を推し量る。法律の世界では、これを「推認」と呼ぶ。

「お願いのしるし」と言っていた

古い贈収賄の事件に、こんなものがある。

中学校の先生が、新しく学級担任になった直後に、生徒の母親から贈答用の小切手を受け取った。額面は5000円。これが賄賂に当たるかが争われた。

問題になったのは、その小切手がどんなつもりで渡されたのか、だった。最高裁は別の判決で、金品がどんな趣旨で渡されたかは、証拠によって認定しなければならない事実の問題だとしている。

母親は、検察官に「これからお世話になりますというお願いのしるし」だったと話していた。先生の側も、担任になったことへのお礼として受け取ったと話していた。第一審と控訴審は、これを賄賂と認めた。

最高裁は、その言葉の部分だけを見れば、そう判断するのも分からなくはない、と認めた。そのうえで、母親の話を全体として読み直した。

母親は法廷で、担任が代わると皆が手土産を持ってあいさつに行くと聞いていたので、上の子のときから持って行っていた、と話していた。検察官にも、前の担任に同じ額を贈ったこと、先生たちへのお中元やお歳暮を欠かさなかったことを話していた。

最高裁は、こうした慣行や金額、ほかの親や先生の場合などを合わせて考えると、職務への対価だと断じるには合理的な疑いが残るとした。そして、審理をやり直すよう高等裁判所に差し戻した。

言葉も、そのまま内心ではない

この判決を読んで、少し驚いた。「お願いのしるし」という、贈った本人が内心そのものを語っているような言葉があったのに、それだけでは決まらなかったのだ。

「お願いします」は、ふだん誰でも口にする挨拶でもある。同じ言葉が、職務への対価を表すこともあれば、慣行としての挨拶であることもある。どちらなのかは、言葉の外にある事情と並べないと決まらない。

本人の言葉でさえ、そのまま本人の内心として読めるわけではない。

受け子は、何を知っていたのか

対照的な例も見ておきたい。特殊詐欺の「受け子」をめぐる、最近の最高裁判決だ。

被告人は、かつての同僚から「仕事」を頼まれた。指示されたマンションの空室に行き、住人のふりをして宅配便を受け取り、別の場所へ運ぶ。1か月ほどのあいだに約20回、場所ごとに違う名前を名乗って荷物を受け取り、1回約1万円の報酬を得た。そのうちのいくつかには、だまし取られた現金が入っていた。

被告人は、犯罪に加わっていることは分かっていたと認めた。ただ、中身は拳銃や薬物だと思っていた、と話した。

問われたのは、詐欺かもしれないと分かっていたかどうかだ。今度は、本人の言葉よりも、外から見える状況から内心を推し量ることになる。

「はず」をいくつ重ねるか

この事件は、第一審が有罪、高等裁判所が無罪、最高裁が第一審の有罪を維持した。分かれたのは、外から見える事実と内心のあいだに、どんな橋を置くかだった。

高等裁判所は、あいだにもう何段か要ると考えた。こうした手口が、当時の報道で広く知られていたか。被告人が知っていた詐欺のやり方と、空室で荷物を受け取ることとを、結び付けて考えられたか。第一審の判断の前提には「疑問を抱くはずであり,疑問を抱けば調べるはずである」という考えがあるとみて、この被告人には当てはまらないとした。

最高裁は、その段は要らないとした。他人になりすまして荷物を受け取ることを何度もくり返し、報酬も得ていた。その事実自体が、詐欺に当たるかもしれないと分かっていたことを強く推認させる。手口が広く知られていたかどうかには左右されない。拳銃や薬物だと思っていたという話も、中身を確かめたわけではなく、詐欺の可能性を打ち消す事情は見当たらない、とした。

どちらが慎重で、どちらが大胆だったか、という話ではないと思う。同じ事実を前にして、内心まで進むのに必要とした橋の数が違った。橋の数が違えば、たどり着く結論も変わる。

「はず」の中にある橋

この判決を読みながら、冒頭の報告書を思い出した。

「メールが届いていたのだから、読んだはずだ」。「読んだのなら、問題に気づいたはずだ」。報告書の「考えられる」の裏には、こういう「はず」が並んでいる。

社内調査報告の例で、記録と結論のあいだに書かれていない「はず」があることを示した図。左の「記録にあること」は、「メールが届いた」「承認の記録がある」「金額が分けられていた」の三つの実線の枠。右の「報告書が書いたこと」は、実線の枠の「認識していたと考えられる」。そのあいだに、赤い点線の枠で「メールを読んだはず」「問題に気づいたはず」を置き、「書かれていない『はず』」と添えている。記録から結論へ進む途中に、書かれていない「はず」があることを示す。社内調査報告の例は筆者によるもので、説明のための簡略図

「知っていたはずだ」の「はず」の中にも、Warrant がある。

「普通、この状況ならこう考えるだろう」という橋だ。法律の世界では、こうした判断を支えるものに「経験則」と呼ばれるものがある。

経験則は、法律に定義されているわけではない。司法研修所の民事の事実認定の教材は、社会生活の経験から導かれた知識や法則だと説明している。人がふつうどう考え、どう動くかというパターンも含まれる。そして、必ずそうなるものを除けば例外を伴うので、固定したルールのように扱うべきではない、とも書いている。

意味の監査の言葉で見ると、この「普通ならこう考えるだろう」という部分は、Warrant にかなり近く見える。ただ、同じものだとまでは、まだ言えない。受け子の判決では、どんな「はず」を使うかが判決の中で言葉にされ、高等裁判所が持ち出した考え方を、最高裁が必要ではないと退けていた。文書の中で黙っている橋とは、置かれている場所が違う。

見立ては必要。でも、設計図ではない

内心を推し量るには、まず「何が起きたのか」という見立てが要る。見立てがなければ、どの事実が大事なのかも決められない。

一方で、見立てが強くなりすぎると、それに合う事実ばかりが目に入るようになる。

最高検察庁は、ある無罪事件を検証した文書で、関係者の多い複雑な事件などでは、捜査で見立てや筋立てを考える必要があることは少なくないとしたうえで、それは「一つの想定にすぎず,設計図のようなものとは根本的に異なり」、常に検証しなければならない、と書いている。

見立ては、証拠を探すために必要になる。でも、証拠を押し込む設計図になった瞬間に危うくなる。

裁判は、どこで止まるのか

第10回では、Warrant をどこまで掘れば十分なのか、という問いが残った。

刑事裁判には、少なくとも判断を終えるための基準がある。有罪とするには、合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が要る。最高裁によれば、これは反対の可能性を全く残さないという意味ではない。抽象的には別の可能性が考えられても、健全な社会常識に照らしてその疑いに合理性がなければ、有罪にできる。逆に、合理的な疑いが残るなら、有罪にはできない。

あらゆる可能性を消すまで掘ることは、求められていない。かといって、判断をせずに止まることもできない。

もちろん、文書を読む監査は裁判ではないし、裁判の基準をそのまま持ち込めるわけでもない。それでも、一つのことは見えた気がする。

真実を完全に知ることと、判断するのに十分な支えがあることは、同じではない。

報告書に戻る

冒頭の報告書に戻ろう。

記録されているのは、メールが届いたこと、承認の記録、金額の分け方だ。「認識していた」は、そこから引かれた線である。その線を支えているのは、「メールが届けば読むはずだ」「読めば気づくはずだ」という、書かれていない「はず」だ。

その「はず」は、この担当者に当てはまるのだろうか。届いたメールが何十通もあった日だったかもしれない。それを確かめないまま「認識していた。だから担当者の責任だ」まで書けば、報告書が引き受けるものは、ずっと重くなる。

意味の監査から見た地図(第11回)

意味の監査の段今回の訪問から生まれた問い
Evidence / Source(メール、承認の記録、金額の分け方)外から確かめられるのは、どこまでか/本人の言葉は、それだけで内心の記録として扱えるか
Inference / Warrant(「認識していたと考えられる」)「知っていたはずだ」を支える「はず」は何か/その「はず」は、この人に当てはまるか/橋をいくつ重ねているか
Commitment(報告書が引き受けていること)「認識していた可能性がある」「認識していた」「だから責任がある」の、どこまで言っているか

注記: 右の問いは、今回の訪問から私が拾ったもので、刑事事実認定の枠組みではない。

今回分かったこと

  • 人の内心は、裁判所でさえ直接は見られない。外から見える事情から推し量る。
  • 本人の言葉も、その一部だけでは内心を決められない。言葉の外にある事情と並べて読まれる。
  • 外から見える事実から内心へ進むには、「普通ならこう考えるはずだ」という橋が要る。法律の世界には、こうした判断を支える「経験則」と呼ばれるものがあり、固定したルールではないとされる。
  • 同じ事実でも、必要とする橋の数が違えば、結論が分かれることがある。
  • 刑事裁判には、あらゆる可能性を消さなくても判断を終えるための基準がある。

まだ分からないこと

  • 経験則と、意味の監査の Warrant は、どこまで重なるのか。
  • 見立ては、どこまで持ってよいのか。
  • 刑事裁判の証明の基準と、意味の監査の止めどころは、どこまで比べられるのか。
  • 内心を推し量る裁判の考え方を、ビジネス文書を読むときに、どこまで持ち込めるのか。

次回

次にどの問いへ進むかは、まだ決めていない。


出典

判決と文書の引用は原文のまま(読点も原文に従う)。判決の事実と判断の説明は、上記の判決文による。冒頭の社内調査報告の例は筆者による。この記事は、事実認定の考え方を紹介するもので、個別の事件についての法的な助言ではない。

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