· 技術革新とデジタルトレンド · シリーズ: 意味の地図をつくる · 読了目安 25 分
五年前の「必ず改善します」を読む。私は何を読んでいるのか――Meaning Auditから解釈学を訪ねる

五年前の報告書
異動した先の部署で、前任者が残した資料を読んでいる。五年前の報告書の最後のページに、こう書かれていた。
今後、必ず改善します。
書いた人は、もうこの部署にいない。何を改善するつもりだったのか、誰に向けて書いたのか、当時どんな事情があったのか。報告書の中には、はっきり書かれていない。
それでも私は、この一文を読んで、何かを分かったような気持ちになる。「前の部署は、この問題を認めて、改善を約束していたのだな」と。
けれども、その「分かった」は、どこから来たのだろう。私は、五年前に書いた人の頭の中を読んだわけではない。読んだのは、目の前に残った文字だけだ。そして私は、今の職場の事情や、最近起きた問題を頭に置いたまま、その文字を読んでいる。
私は、五年前の書き手が言いたかったことを読んでいるのか。それとも、今の私にとっての意味を読んでいるのか。今回は、その問いから出発したい。

分かったつもりが、出発点になる
ふだん、文章を読むことは、書かれた意味をそのまま受け取ることだと考えている。分からないところがあれば、そこだけ調べればいい、と。
ところが、そう考えない立場がある。神学者・哲学者の F. D. E. Schleiermacher(シュライアマハー)について、Stanford Encyclopedia of Philosophy(SEP)の項目(Michael Forster)は、次のように紹介している。理解は自然に起きる、というよくある思い込みに反して、実際には “misunderstanding occurs as a matter of course, and so understanding must be willed and sought at every point”(誤解のほうが自然に起きる。だから理解は、あらゆる箇所で意志して求めなければならない)。
五年前の報告書を読んだときの「分かった」は、まさにこの、自然に起きてしまう理解だったのかもしれない。
こうした「解釈とは何か」を考える分野が、hermeneutics(解釈学)である。SEP の “Hermeneutics”(Theodore George)は、冒頭で “Hermeneutics is the study of interpretation.”(解釈学とは、解釈についての研究である)と書き、伝統的には、とくに聖書研究を中心とする神学、法学、医学などが解釈学に頼ってきた、と続けている。
今回の入口は、この “Hermeneutics” と、同じ SEP の “Hans-Georg Gadamer”(Jeff Malpas)、“Paul Ricoeur”(David Pellauer ほか)、“Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher”(Michael Forster)の解釈学の節である。訳語の確認には、日本語の論文(土方尚子・下山千遥・川村壮平「H.-G. ガダマー『真理と方法』の意義とその射程」)を使った。今回も、専門家として解説するのではなく、読んで理解できた範囲を記録する。Gadamer の『真理と方法』、Schleiermacher や Ricoeur の著作などの原典は、今回は読んでいない。
部分は全体から、全体は部分から
報告書の「改善」が何を指しているのかは、その一文だけを見ても分からない。前のページの問題の説明を読んで、ようやく「ああ、この手続きの遅れのことか」と見当がつく。ところが、前のページの説明も、報告書全体が何のために書かれたかを分かっていないと、どこが要点なのかがつかめない。
SEP の “Hermeneutics” は、この関係を、テキストの部分を正しく理解するにはテキスト全体を理解していなければならず、全体を理解するには部分を一つずつ理解していなければならない、と書いている。これが「解釈学的循環」(hermeneutical circle)と呼ばれる考え方で、古代にさかのぼる形だという。
SEP の Schleiermacher の項目によれば、Schleiermacher はこの循環を悪循環とは見なかった。まず部分を一つずつできるかぎり解釈して、だいたいの全体像をつかむ。その全体像を使って部分の解釈を見直す。見直した部分から、また全体像を良くする。これを、どこまでも繰り返す。理解には程度があり、行き来するうちに精度が上がっていく、という考え方である。
ただし、この循環のイメージにも異論がある。SEP の “Hermeneutics” は、解釈学の内部でも、解釈の経験が本当に循環的なのかが問われてきた、と書き添えていた。
書いた人を理解する、ということ
Schleiermacher は、解釈には二つの面があると考えた。SEP によれば、一つは言語の面で、その言語で共有されている決まりから意味をつかむ。もう一つは心理の面で、その書き手に固有のものをつかむ。同じ「改善」という言葉でも、その言葉の一般的な意味と、その書き手がどんなつもりで使ったかは、別々に考える必要がある。
さらに Schleiermacher は、解釈を始める前に、そのテキストが書かれた歴史的な文脈をよく知っておくべきだとした、とある。五年前の報告書なら、当時どんな問題が起きていて、誰に向けて書かれたのかを、まず調べることになる。
興味深かったのは、SEP の Schleiermacher の項目で、Forster が、Schleiermacher が理解のために必要だと考えたものの一つを、後の時代の言葉を借りて説明していたことだ。言語的な行為を十分に理解するには、言葉の意味だけでなく、のちの哲学者が「発語内の力」(illocutionary force)と呼ぶもの、つまり意図も知る必要がある、という説明である。illocutionary force は Schleiermacher 自身の用語ではなく、Forster が後から当てた言葉だ。それでも、前回見た発話行為論の言葉で言い直せば、「必ず改善します」が約束なのか、見通しなのかまで理解する必要がある、ということに近い。
Schleiermacher には、解釈者は書き手が自分を理解していた以上によく書き手を理解することを目指すべきだ、という有名な言い方がある。SEP の “Hermeneutics” は、これを、書き手と同じくらい、あるいはそれ以上によく理解するという課題として紹介している。ただし、Schleiermacher の項目の Forster は、これは書き手が暗黙のうちにしかつかんでいなかった言語の決まりを、解釈者がはっきりと知るようになる、という程度の意味だろう、と読んでいる。書き手の無意識まで読み取る、という強い意味に取るのは、行き過ぎかもしれない。
読み手は、白紙では読めない
ここまでは、書き手と、書き手の時代に近づこうとする話だった。20世紀の Hans-Georg Gadamer(ガダマー)は、そこに別の角度から問いを立てた。
私が五年前の報告書を読むとき、私は白紙の状態で読んでいるわけではない。今の職場の事情、最近起きた問題、「報告書の約束は守られないことが多い」という経験。そうしたものを持ったまま読んでいる。
ふつう、こうした思い込みは、正しく読むために取り除くべきものだと考える。Gadamer は、そう考えなかった。SEP の Gadamer の項目によれば、Gadamer は、私たちの先入見(prejudice、ドイツ語で Vorurteil)は、理解を閉ざすものというより、“our prejudices are themselves what open us up to what is to be understood”(私たちの先入見そのものが、理解されるべきものへと私たちを開く)と論じた。Vorurteil は、文字どおりには「前もっての判断」のことで、日本語の論文では「先入見」と訳され、日常語の「先入観」が持つ否定的な響きと区別されていた。
ただし、Gadamer はすべての先入見が良いと言ったわけではない。SEP は、Gadamer が、先入見は時にゆがめることがあると認めていた、とはっきり書いている。要点は、いつもゆがめるとは限らない、ということだ。そして、理解の対話の中で、自分の先入見が表に出てきて、それ自体が問い直されるようになる、とも書かれていた。
さらに Gadamer は、私たちの理解は、歴史の中で受け継がれてきたものの影響を受けている、と考えた。日本語では「作用史」と訳されている考え方である。SEP の “Hermeneutics” は、それを、私たちの理解の試みは、自分ではっきり自覚できる以上に、伝統と先入見に導かれている、と説明している。自分が何を前提に読んでいるのかを、すべて見通すことはできない。

読むことは、今に当てはめること
もう一つ、Gadamer は、理解には「当てはめる」こと(application)が含まれると考えた。SEP の Gadamer の項目によれば、過去のものの解釈も含めて、すべての解釈は、今の関心や利害に向けられている。そして Gadamer 自身の言葉として、“application is neither a subsequent nor merely an occasional part of the phenomenon of understanding, but co-determines it as a whole from the beginning”(当てはめは、理解という現象の後から付け加わる部分でも、ときどき起きる部分でもなく、最初から理解全体を共に決めている)という一文が引かれていた。
五年前の「必ず改善します」を読むとき、私は「それで、今はどうなっているのか」「今の私たちは、これをどう引き継ぐのか」という関心から読んでいる。その関心を抜きにして、五年前の意味だけを取り出すことは、たぶんできない。
Gadamer は、理解を「地平の融合」(fusion of horizons)とも表現した。ただし SEP の “Hermeneutics” は、この言葉は誤解を招くかもしれない、と注意している。解釈者が自分の地平を持っていて、そこにテキストという別の地平を取り込んで広げる、という意味に取られやすいからだという。今回は、この言葉の詳しい中身には立ち入らない。ここで持ち帰りたいのは、読み手は自分の今から完全に離れて過去の文章を読むことはできない、という問いのほうである。
書き手の意図は、どこまで要るのか
では、書き手が何を言いたかったのかは、もうどうでもいいのだろうか。
SEP の Gadamer の項目は、Gadamer が、書き手の主観的な意味という内側の領域に入り込むことで理解が達成される、という考え方を退けた、と書いている。SEP の “Hermeneutics” も、Gadamer の言う解釈学的な真理の経験は、書き手の意図を再構成して、書き手が何を本当だと考えていたかを確かめることには還元されない、と説明していた。
Paul Ricoeur(リクール)は、書かれたものに注目した。SEP の Ricoeur の項目によれば、話し言葉は消えていくが、書かれたテキストは、読める人なら誰にでも残る。だから、解釈の対象になるのは、もとの書き手の意図や、もとの状況よりも、テキストの意味のほうだ、と Ricoeur は考えた。そしてテキストには、その背後ではなく、比喩的に言えばその前方に、読み手が想像力で探索できる「テキストの世界」がある、とも説明されている。
五年前の報告書の書き手は、もうここにいない。それでも報告書は残っていて、今の私に読まれている。Ricoeur の考え方は、この状況にかなりよく当てはまるように見える。
けれども、ここで話を終えると、「書いた人の意図は関係ない。読み手が今読んだ意味がすべてだ」という話になりかねない。調べてみると、そう単純でもなかった。SEP の “Hermeneutics” は、Heidegger や Gadamer の解釈学は、解釈の良し悪しをどんな基準で評価するのかという問いから注意をそらしている、という批判を紹介している。また、伝統の権威を重んじる解釈学には、受け継がれた先入見の中に入り込んだイデオロギーを批判する余地がない、という Habermas の批判と、それに対する Gadamer の反論も紹介されていた。
読み手の歴史性や先入見を認めても、それで、どの解釈がより良いのかを判断する基準の問題が消えるわけではない。書き手の意図を、どこまで、どんな形で重視すべきなのか。今回読んだ範囲では、ここに一つの答えがあるとは言えなかった。
解釈学の全体を見渡す記事ではないので、ここから先の議論は追わない。興味を持った人は、「解釈学」「ガダマー」「リクール」「シュライアマハー」などで調べると、入門的な解説が見つかるはずだ。
資料の上で、時を隔てて読む
ここからは、解釈学そのものを文書に当てはめるのではなく、そこから得た「読むことには、読み手の今が入り込む」という視点を、資料へ持ち帰って考えてみたい(以下は、いずれも仮の例である)。
五年前の報告書の「必ず改善します」。書かれた当時、それは約束だったのかもしれないし、社内向けの決まり文句だったのかもしれない。今の読み手は、それを約束として読み、「守られなかった」と受け取るかもしれない。書かれた時の意味と、今読まれる意味は、ずれうる。
五年前に読んだ人にとって、この一文は、これから改善するという約束として読めた。五年後に読む私には、「結局、改善されたのか」という別の問いが生まれる。文字は一字も変わっていない。変わったのは、読まれる時間のほうだ。時間が文脈を変え、その文章が何を引き受けていたのかという読みまで変えることがある。
方針文書でも、同じことが起きる。十年前に作られた「顧客第一」という方針を、今の担当者が読む。当時は「苦情に早く対応する」という意味だったのかもしれない。今の担当者は、それを「顧客データを大切に扱う」という意味で読むかもしれない。どちらも、文字としては同じ「顧客第一」である。
そして、資料を監査する人も、同じ立場にいる。監査する人もまた、白紙では読めない。今の関心、過去の経験、その資料に対する見方を持ったまま、資料を読んでいる。
Ricoeur の項目には、解釈は、ほかの解釈と照らし合わされ、問い直されなければならず、状況が変われば、いずれやり直されることになる、という一文があった。一回の読みで、意味が確定するわけではない。
意味の監査との接続
ここからは、私の側の考察として書く。
まず、普通の言葉で整理する。資料を読むとき、私たちは書かれた文字を読んでいる。けれども、その読みには、読み手の今の状況と関心が入り込んでいる。書かれた時から時間がたった資料では、書いた人の事情は分からなくなっていることが多い。それでも、読み手は何かを「分かって」しまう。
意味の監査は、もともと、こうした分からなさを記録する仕組みを持っている。Workflow v1.0 では、監査の最初に、監査対象の作成者・生成元・日付などを特定し、分からない項目は UNKNOWN とする。根拠となる各要素には、KNOWN / INFERRED / UNKNOWN / CONFLICTING という情報状態を付ける。そして、根拠と結論をつなぐ理由が示されていない場合、監査者が補った理由は INFERRED と明記し、事実として扱わない、と決めている。
解釈学を読んだあとで意味の監査を振り返ると、この最後の決まりは、監査者自身の読みと、成果物に直接書かれているものを混同しないための仕組みとしても読める。Workflow v1.0 がそういう意図で作られた、と言いたいわけではない。今回、解釈学を読んだあとで見えてきた読み方である。
もちろん、INFERRED と書けば、監査する側の先入見がなくなるわけではない。補った理由そのものが、監査者の先入見から出てきているかもしれない。INFERRED は、読みの客観性を保証するラベルではない。ただ、「ここから先には監査者自身の読みが入っている」という場所を、露出させることはできる。

一方で、解釈学からは、意味の監査に向けて新しい問いも返ってくる。
一つ目は、Interpretation の段についてだ。意味の監査の Interpretation は、根拠がどのように解釈されて成果物の中の意味になったかを見る段である。けれども、その「解釈」を確かめている監査者の読み自体も、一つの解釈である。監査者の先入見を、どこまで意識し、記録できるのか。
二つ目は、Context / Pragmatics の段についてだ。Workflow v1.0 は、この段の対象に、見出し・配置・語彙・図と並んで、想定読者を挙げている。けれども、時を隔てて読む読者は、書いた人が想定していなかった読者かもしれない。書かれた時の文脈と、読まれる時の文脈の、どちらを基準に監査するのか。五年前の「必ず改善します」は、書かれた時の文脈で読めば約束で、いまの文脈で読めば「その後どうなったか」を問う材料になる。これは、今回いちばん大きく残った問いである。
三つ目は、Commitment の段についてだ。前回、成果物は何かを引き受けている、と考えた。では、五年前の資料が引き受けたものは、今も引き受けられたままなのか。書いた担当者は異動し、経営陣が変わり、組織の方針も変わったかもしれない。それでも、五年前の成果物が引き受けた Commitment は、今の組織に残っているのか。残っているとすれば、誰がそれを引き継ぐのか。今回読んだ資料からは、答えは出なかった。
こうして見ると、意味の監査は対象の意味を監査するが、その意味を読んでいる監査者自身も、意味が生まれる過程の外には立てないのかもしれない。だとすれば、意味の監査にできるのは、完全に客観的な読みを保証することではなく、どこまでが資料にあり(Evidence)、どこからが監査者の読みで(INFERRED)、何が分からず(UNKNOWN)、どの文脈で読んだのか(Context)を、露出させることではないか。
ただし、解釈学と意味の監査は、同じことをしているわけではない。解釈学は、理解するとはどういうことかを問う哲学で、意味の監査は、成果物の中で意味がどこで動いたかを追う方法である。解釈学を根拠に、意味の監査の正しさを主張することはできないし、そのつもりもない。
AI は、何を前提に読んでいるのか
最後に、気になっていることを一つ置いておく。
最近は、古い資料の要約や読解を AI に頼むことも増えた。AI が五年前の報告書を要約するとき、AI は何を前提に読んでいるのだろう。AI にも、先入見のようなものがあるのか。あるとすれば、それは誰の、いつの前提なのか。
今回読んだ SEP の四つの項目には、AI や機械による読解についての議論は見つからなかった。ここは、分からないこととして残しておく。
意味の監査から見た地図(第6回)
これまでと同じく、左に意味の監査の段、右に今回の学問から投げかけられる問いを置く。解釈学の考え方を、意味の監査の段に挿入したのではない。今回は、問いが Interpretation と Context / Pragmatics に集まり、Commitment にも時間の問いが加わった。

注記: 右の問いは、解釈学の正式なモデルではなく、今回読んだ範囲から私が拾った問いである。
今回分かったこと
- 解釈学は、解釈そのものを研究する分野で、もともとは聖書研究や法学などのための技術として発達し、のちに理解一般の問題へ広がった。
- 部分を理解するには全体が、全体を理解するには部分が必要になる。Schleiermacher は、この往復を、理解の精度を上げていく手順として考えていた。
- Gadamer は、読み手の先入見を、取り除くべき障害というより理解の条件として捉え直した。ただし、先入見が理解をゆがめることも認めていた。
- 理解には、今の状況に当てはめることが最初から含まれる、という見方がある。時を隔てた文章を、今の関心を抜きにして読むことは難しい。
- 書き手の意図をどこまで重視すべきかについては、解釈学の中でも議論が続いていて、今回読んだ範囲では一つの答えにまとまっていなかった。
まだ分からないこと
- 意味の監査は、書かれた時の文脈と、読まれる時の文脈の、どちらを基準にすべきなのか。それとも両方を分けて記録すべきなのか。同じ「必ず改善します」でも、時間がたてば、そこから読まれる Commitment が変わりうる。
- 監査者自身の先入見を、どこまで意識し、記録できるのか。INFERRED と書くことは、読みが入った場所を示すことにはなっても、先入見そのものを取り除くわけではない。
- 担当者が異動し、経営陣や方針が変わった後も、五年前の資料が引き受けた Commitment は、今の組織に残っているのか。残っているなら、誰が引き継ぐのか。
- AI が古い資料を読むとき、何を前提に読んでいるのか。今回の資料には、AI についての議論はなかった。
次回
今回は、読む側もまた、意味が生まれるところに関わっていることを見た。では、私たちは、そもそも何を「読んで」いるのだろう。
ここまでのシリーズでは、ずっと言葉を見てきた。言われたこと、言っていないのに伝わること、言うことで行われること、時を隔てて読まれること。
けれども、資料の中にあるのは言葉だけなのだろうか。数字、グラフの色、矢印の向き、図の配置。言葉ではないものも、何かを意味しているのではないか。
次は、言葉・数字・図・画像は、どうやって何かを意味するのか、という問いを持って、記号論を訪ねる。
出典
- George, T., “Hermeneutics”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(初出 2020-12-09、最終改訂 2025-04-30)https://plato.stanford.edu/entries/hermeneutics/
- Malpas, J., “Hans-Georg Gadamer”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(初出 2003-03-03、最終改訂 2022-08-22)https://plato.stanford.edu/entries/gadamer/
- Pellauer, D., Dauenhauer, B. & Davidson, S., “Paul Ricoeur”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(初出 2002-11-11、最終改訂 2026-01-05)https://plato.stanford.edu/entries/ricoeur/
- Forster, M., “Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher”, Stanford Encyclopedia of Philosophy(初出 2002-04-17、最終改訂 2022-05-19)https://plato.stanford.edu/entries/schleiermacher/ (解釈学の節を参照)
- 土方尚子・下山千遥・川村壮平「H.-G. ガダマー『真理と方法』の意義とその射程 ― 芸術・精神科学・言語」『哲学の探求』第52号、2025年 https://www.jstage.jst.go.jp/article/wakateforum/2025/52/2025_81/_pdf/-char/en
引用した英文の日本語訳は筆者による。Gadamer の『真理と方法』(Wahrheit und Methode、1960)、Schleiermacher の解釈学の講義、Ricoeur の著作、Habermas と Gadamer の論争の原典、および項目内で言及されている後続研究は、今回は読んでいない。Gadamer と Schleiermacher の言葉は SEP の項目に引用・紹介されているものによる。





